Entries

知里幸惠(三)遺稿「手紙」

 前回の遺稿「日記」に記したように、知里幸惠(ちり ゆきえ)は、『アイヌ神謡集』の原稿が仕上がり印刷所へと送られた年の、大正十一年(1922年)九月十九日、享年十九歳で亡くなりました。亡くなった年の六月から九月の「日記」と「手紙」が遺稿集として出版されています。
 遺稿の「手紙」は亡くなった直前まで記されていて、両親への最後の手紙の日付は九月十四日付、亡くなった日の5日前です。彼女がどんなに生きたかったか、両親に会いたかっただろうか、と思うと悲しくてなりません。そこに記されている、病と闘いながら、アイヌを思い、肉親を思う、心を痛める優しい生の声の切実さに、心を揺さぶられます。

 幸惠は、『アイヌ神謡集』という美しい祈りのような本で、「彼女にしか出来ないある大きな使命をあたへられてる事を痛切に感じた」、「愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すこと」、「彼女にとってもっともふさはしい尊い事業」をやり遂げたのだと私は思いたいです。彼女ならきっと、まだまだ心に響く言葉を生み出し伝えてくれただろうと思うと、とても悲しく悔しい。優しい美しい心の人はどうして早く召されてしまうのでしょう。
 彼女の言葉の通り、「過去二十年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらのすべての物」、「それらのすべての経験が、」彼女「をして、きたへられ、洗練されたものにし、また、自己の使命はまったく一つしかないと云ふことを自覚せしめた」、だからこそ、こんなに美しく響く愛(かな)しい本を、生み出し、伝え、私たちの心に響かせ続けてくれることができた、のだと私も感じます。
 彼女が痛切な悲しみに負けずに命を賭して残してくれたこの本に織り込められた願いと祈りの響きは、決して消えない、私はそう信じます。

◎原点引用 (紫文字の箇所はとくに強く響いた言葉に私がつけたものです。)

「手紙」 知里幸惠

知里高吉・波子宛
大正十一年(1922年)
九月四日付(東京発信)

(略)
自分の病気の事ばかり長々と書連ねまして誠に相すみません。私も折角の機会ですから、これを逸せずもう暫く止まって一年か二年何か習得して帰りたいことは山程で、今頃病気だなどとおめ/\帰るは、涙する程かなしうございます。然し御両親様、神様は私に何を為させやうとして此の病を与へ給ふたのでせう。私はつく/″\思ひます。私の罪深い故か、すべての哀楽喜怒愛慾を超脱し得る死! それさへ思出るんですが、神様は此の罪の負傷(いたで)深い病弱の私にも何事か為させやうとして居給ふのであらうと思へば感謝して日を送ってゐます。
今一度幼い子にかへって、御両親様のお膝元へ帰りたうございます。そして、しんみりと私が何を為すべきかを思ひ、御両親様の御示教を仰ぎたく存じます。半年か一年ほど……。
旭川のおっかさんは許してくれる筈です。
今月の二十五日に立つことに先生や奥様と決めました。あまり早過ぎるでせうか。やはり室蘭廻りがよからうと先生のおはなしでございました。それまでに一度大学病院へ先生が連れて行って下さることになってゐます。そして坂口博士に診て戴いて、今後の養生法など仔細に承ることになってゐます。(略)
今日は何を書いたかわかりませんが、ずいぶんぞんざいで誠に相すみませんでございました。では二十五日に帰りますから、よろしくおねがひ致します。そして汽車賃は旭川のおっかさんが送ってくれるはずですから、何卒柳行李と弁当料だけ御都合の時に御恵与の程おねがひ申上げます。これからも度々こんな風にからだが悪くなっちゃ、とても気兼々々で、私の弱むしは困りますから成るべく御迷惑かけないうちに帰りたいと思ふのです。旅の途中などは大丈夫です。船にも汽車にも酔ひませんから……。(略)
涼しくなって、食が進む時はとかく胃腸を悪くしやすい時ださうですから、皆々様おたいせつに。操ちゃんによろしく。フチたちにも沢山よろしく。道雄さんかはいさうに、私の所へも私が病気の最中手紙が来て入院してると云って来ました。まったく困ったものですね。病気になるんなら、ほかの若いピン/\した人たちの病気がみんな私のところへ集って来て、その代り誰も病気しないんなら何んなに嬉しいでせう。彼の人にもまだ見舞状を出しませんが嘸うらんでゐるでせう。では、これで失礼致します。
さよなら
幸惠より
 愛する
  御父上様
  御母上様

知里高吉・波子宛
大正十一年(1922年)
九月十四日付(東京発信)


愛する御両親様、おいそがしいなかをお手紙を下さいまして誠にありがとう存じました。また沢山のお銭をお送り下さいまして何ともお礼の申上げやうも御座いません。ほんとうに御都合の悪い所をおねがひ申上げましてほんとうにありがたうございました。二十五日に帰る予定でしたが、お医者さんがもう少しと仰ったので十月の十日に立つことに致しました。めづらしくよほどやせましたので、すっかり恢復してから帰ります。でも此の頃は大方もとのとほりのふとっちょになりました。まだあとざっと一月もあります。坊ちゃんが大よろこびしてゐます。私のカムイカラの本も直きに出来るようです。昨日渋沢子爵のお孫さんがわざ/\その原稿を持って来て下さいまして、誤りをなほしてもうこんど岡村さんといふ所へまはって、それから印刷所へまはるさうです。(略)
私は奥さんのお裁縫を手伝ったり、先生のアイヌ語のお相手になったり、ユカラを書いたり、気まゝな事をしてゐます。(略)去る七日、私は名医の診断を受けました。(略)先生にすっかり何かをおはなしになり、診断書を於(ママ)ていらっしゃいました。(略)私の方は、やっぱり心臓の僧帽弁狭さく症といふ病気で、其の他には病気はありません。呼吸器もいいさうです。そして前の坂口博士が仰った様に、無理を少しすれば生命にかゝはるし、静かにさへしてゐれば長もちしますって。診断書には、結婚不可といふことが書いてありました。何卒安心下さいませ。
私は自分のからだの弱いことは誰よりも一番よく知ってゐました。また此のからだで結婚する資格のないこともよく知ってゐました。それでも、やはり私は人間でした。人のからだをめぐる血潮と同じ血汐が、いたんだ、不完全な心臓を流れ出づるまゝに、やはり、人の子が持つであらう、いろ/\な空想や理想を胸にえがき、家庭生活に対する憧憬に似たものを持ってゐました。本当に、肉の弱いやうに私の心も弱いのでした。自分には不可能と信じつゝ、それでもさうなんですから……。充分にそれを覚悟してゐながら、それでも最後の宣告を受けた時は苦しうございました。いくら修養しよう、心ぢゃならない、とふだんひきしめてゐた心。ずっと前から予期してゐた事ながらつぶれる様な苦涙の湧くのを何うする事も出来なかった私をお笑ひ下さいますな。ほんとうに馬鹿なのです、私は……。
然しそれは心の底の底での暗闘で、つひには、征服されなければならないものでした。はっきりと行手に輝く希望の光明を私はみとめました。過去の罪怯(ママ)深い私は、やはり此の苦悩を当然味はなければならないものでしたらうから、私はほんとうに懺悔します。そして、其の涙のうちから神の大きな愛をみとめました。そして、私にしか出来ないある大きな使命をあたへられてる事を痛切に感じました。それは、愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すことです。この仕事は私にとってもっともふさはしい尊い事業であるのですから。過去二十年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらのすべての物は、神が私にあたへ給ふた愛の鞭であったのでせう。それらのすべての経験が、私をして、きたへられ、洗練されたものにし、また、自己の使命はまったく一つしかないと云ふことを自覚せしめたのですから……。もだえ/\苦しみ苦しんだ揚句私は、すべての目前の愛慾、小さいものをすべてなげうって、新生活に入り、懺悔と感謝と愛の清い暮しをしやうと深く決心しました。神の前に、御両親様にそむき、すべての人にそむいた罪の深いむすめ幸惠は、かくして、うまれかはらうと存じます。何卒お父様もお母様も過去の幸惠をお許し下さいませ。何卒おゆるし下さいませ。そして此の後の幸惠を育み導いてやって下さいまし。おひざもとへかへります。
一生を登別でくらしたいと存じます。たゞ一本のペンを資本に新事業をはじめようとしているのです。明日をも知らぬ人の生、たゞあたへられた其の日/\を、清く美しく、忠実に送って何時召しを受けてもいゝ様に日を送れば、それでいゝんですから。私は小さな愛から大きな愛を持って生活しやうと思ってるのです。私の今の心持は、非常に涙ぐましい程平和で御座います。にくみもうらみもなく、たゞ感謝にみちてゐます。私のすべての気持を書きあらはすことはとても出来ません。たゞ、此の事で、名寄の村井が何んな事を感ずるかと云ふことが、私の胸を打ちます。しかし、何卒彼が本当に私をよりよくより高く愛する為に、お互ひの幸をかんがへ、理解ある判決を此の事にあたへる様に、と念じてゐます。
本当に罪深い私でした。何卒おゆるし下さいませ。親にむかって図々しくも斯様な事を書ならべて、嘸や御不快でもいらっしゃいませう。私は、此の後、一生沈黙をつゞけます。ほんとうに無言で暮しませう。たゞその生活に入る前に、私が此の世に於て人間としてあたへられた、此の苦しみ、此のなげきと、さうして最後にあたへられた、大きな愛、使命の自覚などと云ふ心の変りかたを御両親様に申上げます。お察し下さいませ。
昨日、名寄の方へ知らせてやりました。何んな返事が来るか知りません。何卒お情に、もしをりがありましたら、彼に何とか言ってやって下すったら私の幸福は此の上ありません。フチたちや皆々様によろしくお伝へ下さいませ。十月の十二日頃はお目にかゝれます。(略)農繁期でみなさんおいそがしくいらっしゃいませう。東京は此の頃また、暑くなりました。でもやはり秋らしい感じが澄んだ青空にも木の葉を揺りうごかす風にも豊かに満ちてゐます。北海道は涼しくなりましたでございませう。(略)
先達はほんとうに御心配かけました。今度は帰るまで大丈夫でございます。今私は平和な平和な感謝の気分にみたされて、誰でもすべての人を愛したい様な気が致します。何卒御両親様おからだをおたいせつにあそばして下さいませ。
さよなら
幸惠より
  愛するお父様
  愛するお母様

出典:青空文庫(入力:川山隆、校正:松永正敏)
底本:「銀のしずく 知里幸惠遺稿」(草風館 、1996年)


 次回から、『アイヌ神謡集』に込められた知里幸惠の願いと祈りの詩を聴きとっていきます。

関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/107-9090820f

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事