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古代の芸謡(二) 乞食者(ほかいびと)の歌

 歌謡と詩歌の交わりの視点から古代歌謡を見つめなおしています。今回も古代の芸謡を前回に続きとりあげます。ただし宮廷で謡われた専門の語部(かたりべ)による芸謡ではなく、都市の一般の民衆を聴衆とした芸人である乞食者(ほかいびと)が謡った芸謡です。

作品(原文と訳文)

  おし照るや 難波(なには)の小江(をえ)に
  蘆(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る
  葦蟹(あしがに)を 大君召すと。
  何せむに 吾(わ)を召すらめや。
  明(あき)らけく 吾が知ることを
  歌人(うたひと)と 吾を召すらめや
  笛吹きと 吾を召すらめや
  琴(こと)弾きと 吾を召すらめや。
  彼(か)も此(かく)も 命(みこと)受けむと
  今日(けふ)今日と 飛鳥(あすか)に至り
  立てども 置勿(おくな)に至り
  策(つ)かねども 都久野(つくの)に至り、
  東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
  参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば、
  馬にこそ 絆(ふもだし)懸(か)くもの
  牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ、
  足引の この片山の
  もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)ぎ垂れ、
  天光(あまて)るや 日の気(け)に干(ほ)し
  囀(さひづ)るや 韓臼(からうす)につき
  庭に立つ 手臼(てうす)につき、
  おし照るや 難波の小江の
  初垂(はつた)りを 辛(から)く垂れ来て、
  陶人(すえひと)の 作れる瓶(かめ)を
  今日行きて 明日取り持ち来、
  吾が目らに 塩塗りたまひ
  時賞(もちはや)すも 時賞すも。

<訳:
(おし照るや)難波の入江に小屋を作って隠れ棲んでいる葦蟹を、大君がお召しになるという。いったい何のために私(蟹)をお召しになるのだろうか ― そんなはずはあるまい。私がよく知っている事柄を、歌人として私をお召しになるのだろうか、笛吹きとして私をお召しになるのだろうか、琴弾きとして私をお召しになるのだろうか ― いやそんなはずはあるまい。ともかくも大君のおことばを承ろうと、(今日今日と)飛鳥に至り、(立っていても)置勿に至り、(築きもしないのに)都久野に至り、そして(皇居の)東の御門から参入して、おことばを承ると、(馬にこそ絆は懸けるものだのに、牛にこそ鼻縄は着けるものだのに、馬でも牛でもない私に縄を懸けて足を引っ張る ― 足引きの)この片山の楡の枝の皮を、たくさん剥いできて吊り下げ、それを(天光るや)日の光に干し、(囀るや)韓臼でつき、(庭に立つ)手臼でついて、(おし照るや)難波の入江の初垂れの塩の辛いのを作ってきて、陶器作りが作った瓶を、今日行ってすぐ明日運んできて、(其の中に楡の皮と塩と蟹を漬け)、私の目に塩を塗って、ご賞味なさいます、ご賞味なさいます。>

  乞食者(ほかいびと)の鹿の歌と蟹(かに)の歌を初めて『万葉集』に見つけたとき、とても強く心に焼きつきました。『万葉集』は様々な姿の歌を束ねていますが、それらのなかでも一際異色さが際立っていると感じつつ、また共感も覚えた歌でした。
 
 蟹(かに)が謡っていることが、何よりとても好きです。アイヌのカムイユーカラは様々な生きものが自ら謡っているとても豊かな歌謡ですが、古代の日本に通じ合うこの芸謡があることを、私はとても嬉しく思います。

 今回、引用文献を読み返して、乞食と芸人の境界のあいまいさ、職業的芸能がうまれでてきたところについて、感慨のような思いを抱きます。私もある意味心の乞食者(ほかいびと)なのだと思います。
 もう一点、社会的な批評精神、権力者、お上に対する風刺が込められていることに、私は庶民出身の乞食者(ほかいびと)の一人として強い共感を覚えます。芸に生きるもの同志の時代を越えた共感です。

以下、出典からの引用です。

 『万葉集』には「乞食者(ほかいびと)」の鹿の歌と蟹(かに)の歌を採録しているが、その芸能は共同社会や氏族社会の中で成立・伝承されていた民族的な芸能の段階をまだ十分には脱却していない。にもかかわらず、それは一般の民衆を聴衆とする芸謡であり、したがって歌の内容も、支配者に奉る寿歌(ほがいうた)を引っくり返した時世風刺であることは、注目に値することである。(略)

 「乞食者(ほかひびと)」は(略)、カタヰは片居で、道の傍らに座って物を乞ういわゆるコジキであるが、ホカヒビトの方はホカヒ(祝言)を述べ立ててその代償に物を貰う者であるから、両者は一応区別しなければならないはずであるのに、(略)同類のものとして扱われているのは、彼らの生活の実態が厳密には区別しがたいものであったからだろう。
 ホカヒは農村のような共同社会にも、氏族社会にも、宮廷社会にもあるが、それを生活の手段とする職業的なホカヒビトが出現したのは、生活の手段を失ったためであった。生活の手段を失ったコジキはいつの時代にもあるが、特に律令時代班田の課役の強化によって、あるいは飢饉災疫の流行によって、土地を捨てて離散する窮民が増加したことは、(略)知られ、それはおそらく大化の公地公民制の実施以後次第に強まってきたものと思われる。彼らは人の集まる市に出て来ていわゆるカタヰとなるか、ホカヒの心得のある者は、権門勢家の門に立って祝言を述べて物を貰う職業的ホカヒビトになり、市に立って民衆を相手にホカヒの芸能を売ることもしたであろう。いったいホカヒは下の者から上の者に奉る形式を取るものであるから、彼らが権門勢家の門に立つ場合は当然純粋なホカヒを演じたはずであるが、不特定多数の民衆が集まる市においては、ホカヒの対象はないのであるから、その芸能は純粋なホカヒではありえず、一人一人の見物人の関心に訴えるものにならざるをえない。職業的芸能は都市の市民によって育てられていくのであって、その傾向はこの乞食者の歌に、すでに現われているのである。

 (略)蟹が大君のお召しを受けて皇居に出掛けることを歌っているのは、「歌人(うたひと)と 吾を召すらめや 笛吹きと 吾を召すらめや 琴(こと)弾きと 吾を召すらめや」の句が示しているように、徴発される芸能人の姿が蟹の姿を借りて表現されているのであって、それは天武四年二月大倭・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張等の国々に勅して、「所部(くにのうち)の百姓(おほみたから)の能く歌ふ男女、及び侏儒(ひきひと)。伎人(わざひと)を選びて貢上(たてまつ)れ」とあるような芸能関係の技能者の徴発事実をふまえているのである。『職員令』によれば、雅楽寮には歌人三十人・歌女百人、笛工(ふえふき)八人が置かれ、男子は課役を免ぜられ、女子は養丁を給せられるから(略)、一応はよいようであるが、生業を離れるわけであるから、家族にとっては迷惑なことだったに違いない(略)。難波の蟹が芸能人として召されることを歌っているのは、蟹が伝統的に寿祝芸能の主人公であることの上に、飛鳥藤原朝における芸能人の徴発という現実の状況が重ねあわされているのである。
 
出典:「記紀歌謡」土橋寛『鑑賞日本古典文学第4巻 歌謡Ⅰ』(角川書店、1975年)
(* 漢字やふりがな等の表記は読みやすいよう変えた箇所があります。)

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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