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ボードレールの散文詩。フランス詩歌の翻訳(二)

 好きなフランスの詩をみつめながら、詩歌の翻訳について考えています。前回は最も「歌」に近いヴェルレーヌの詩歌を聴きとりました。今回は、詩歌の海のより大きな広がりを眺めての想いを記します。

 まず、おなじヴェルレーヌの詩歌の日本語訳でありながら詩歌らしい響きを感じる作品、主題と主調はまさしくヴェルレーヌともいえる「憂鬱」です。

 なぜ詩歌の響きが感じられるのか?
 前回、日本語の脚韻について、「秋の日の(no)」と「ヴィオロンの(no)」の母音oの脚韻は、弱すぎて脚韻とは感じとれない、行分けにより、息の休み、間を生んでいるだけ、と記しました。 
 それに対して「憂鬱」には次のような特徴があります。
①  第1連に、「赤かった。」「黒かった。」の脚韻。かった、と3文字あるので日本語の弱い響きでも反覆を感じとれます。
② 第2連に、「恋人よ、」「生まれるよ。」は、呼びかけの心が通じ合うため、「よ」が響き合います。
③ 第3連に、「空は」と「海は」の対句。「すぎた、」「過ぎた、」「すぎて、」「過ぎた。」の畳韻、脚韻。誰にも感じられる強さがあります。
④ 第5連に、「ひいらぎにも、」「つげのきにも」の対句的だから「ぎにも」と「きにも」の3文字が響き合います。
⑤ 第6連に、「は(HA)てしのない」「のは(HA)ら(A)」「あ(A)らゆる」「(あ(A)きあ(A)き)」「ああ(AA)」「た(TA)だ(DA)」「には(WA)」と、A音が流れるように揺れ動き響き合っています。

 中原中也も、日本語の詩歌にとっての、ゆたりゆたりとした言葉の繰り返し、対句が、歌にいのちを吹きこむものと言っていますが、原詩にある対句表現が、訳を越えても、失われないことが、詩歌としての表現がたもたれている一つの要因です。
 そしてもうひとつの要因は、訳者の日本語の言葉を詩歌として響かせる感性と創意による表現力にあると、私は感じます。だから原詩を知らずとも、独立した日本語による訳詩としての美しい音楽を奏でていると私は感じます。


  憂鬱(スプリーン)
        ヴェルレーヌ
        鈴木信太郎訳


薔薇の花は まるで赤かった。
蔦(つた)の葉は すっかり黒かった。

恋人よ、少しでも君が動くと、
またわたしの絶望が生れるよ。

空は碧(あお)すぎた、穏やか過ぎた、
海は青すぎて、空気は静か過ぎた。

絶えずわたしは気に病んでゐる、―待つ身の
つらさ、―何だか無慙(むざん)に棄てられそうだと。

漆(うるし)を塗った葉の柊(ひいらぎ)にも、
きらきら光る黄楊(つげ)の木にも、

はてしのない野原にも、あらゆるものに、
厭々(あきあき)した、ああ、ただ君の外には。

出典:『筑摩世界文学大系48 マラルメ ヴェルレーヌ ランボオ』(1974年、筑摩書房)

 次に、ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』を手にとります。とても懐かしさを感じます。熱愛したわけではないけれど、彼の詩集『悪の華』より好きで、十代、二十代に繰返し読みました。惹かれるもの、言葉の美しさを感じていた気がします。
 行分けされているかいないかが、詩と散文をわける境界ではないことを、この作品に私は教えられました。

なぜ詩歌の響きが感じられるのか?
 「酔いたまえ」にも次の特徴があります。
① いちばん根本的なことは、作者の感動が、気持ちの昂ぶりがみなぎっていることです。詩と散文の根本的な境界はそこにしかありません。
② 表現の面でのその核心は、「酔いたまえ」という主題を、言葉づかいを変奏曲のように、「酔っていなければならぬ。」「酔い続けねばならぬ。」「酔いたまえ。」「「酔うべき時!」「酔いたまえ、絶えず酔いたまえ!」と微妙に変えながら繰り返す毎により高めていく詩法にあります。
③ たたみかける語句の迫力と美しさ、繰り返しによる響き合いも、この散文詩の魅力です。特に「訊ねるがいい、風に、波に、星に、鳥に、時計に、およそ移ろうもの、およそ呻くもの、およそめぐるもの、およそ歌うもの、およそ語るもののすべてに、訊ねるがいい、いまは何時(なんどき)かと。すると、風も、波も、星も、鳥も、時計も、君に答えるだろう、」この詩句は美しく波のように心に打ち寄せ砕けます。
 『パリの憂鬱』は詩歌の本質と表現に必要な核心を教え考えさせてくれる作品だと私は思います。特に定型詩のない日本語で書く詩人にとって。

  酔いたまえ
        シャルル・ボードレール  
        安藤元雄訳


常に酔っていなければならぬ。それがすべてだ、問題はそれしかない。君の肩を押しひしぎ、君を地べたにかがませる「時間」の恐るべき重荷を感じたくなかったら、休むひまなく酔い続けなければならぬ。
 しかし、何に? 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように。だがとにかく酔いたまえ。
 そしてもしもときたま、宮殿の石段の上で、掘割の緑の草の上で、君の部屋の陰鬱な孤独の中で、君が目を覚まし、酔いがすでに薄れたり消えたりしていたら、訊ねるがいい、風に、波に、星に、鳥に、時計に、およそ移ろうもの、およそ呻くもの、およそめぐるもの、およそ歌うもの、およそ語るもののすべてに、訊ねるがいい、いまは何時(なんどき)かと。すると、風も、波も、星も、鳥も、時計も、君に答えるだろう、≪いまは酔うべき時! 「時間」の奴隷として虐げられたくなかったら、酔いたまえ、絶えず酔いたまえ! 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように≫と。

*散文詩集『パリの憂鬱』(1869年)収録。
出典:『フランス名詩選』(1998年、岩波文庫)

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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