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ツェランの詩。ザックスの詩。

 ドイツ詩の韻律に耳をすませた前回、詩人の吉川千穂さんが論文に引用されていた詩、パウル・ツェランの「死のフーガ」と、吉川さんが研究されていたネリー・ザックスの詩を、ここに咲かせます。
 ふたりの詩人とその詩を結ぶものに、第二次世界大戦時のナチスによる強制収容所があります。著者紹介を出典から引用しました。
 ツェランの詩は語法も比喩も翻訳で感じとるには難解だと私は感じますが、この詩からは波状に繰り返し叫びが痛く響き押し寄せてきます。
 ザックスの詩を私はまだこの『ドイツ名詩選』所収の2篇しか知らず、読み感じとってゆきたいと思います。

 この2篇を読み強く感じることは、「ぼくら」「わたくしたち」という言葉の執拗な繰り返しです。迫害されたユダヤびとのひとりとして、殺されたあまりにも多くのいのち共に苦しみ、共に叫び、共に祈り、共にあろうとすることが、生きること、詩を書くことそのものに、なっているのだと感じます。
 キリスト教の「主の祈り」に「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」のように繰り返される「われら」、信仰をともにするものの声です。

 私自身は詩に、「わたしたち」という言葉は書けません。
信仰は、神が「わたしたち」のどんなに弱く愚かな最後の一人まで決して見捨てないと信じる痛切な祈りであり、信仰する人を私は敬愛します。
 一方で日常社会生活では、国家や党派や会社や多くの組織が「わたしたち」に個人を従属させながら、組織自体の存続に関わる事柄では、利益にならないと多くは弱い者を断定し、簡単に見捨て切り捨てます。
 また、「わたしたち」は所属者と「それ以外のよその人」を区別する排他的な言葉であることが、生理的に嫌いです。「わたしたち日本国民は」というとき、無意識のうちに、排他的な埃が意識と言葉にまといついてしまいます。 
 「わたしたち」「ぼくら」という言葉にはこれらのことが付きまとい、嘘だという感覚が私にはぬぐいがたくあります。
 幼稚園児が、クラスメートと一緒に、「ぼくたち」「わたしたち」と呼び合う純粋な響きは、信仰の言葉以外には失われているのではないか、と感じます。
 こんなことにこだわったら日常生活をおくれないと感じる方に対しては、私は、詩の言葉は、日常の政治で垂れ流されるその場しのぎの場当たり的な空言とは、質がちがうものだと考え、だから詩をつくり、言葉を響かせている、と伝えます。
 詩はひとりの心の泉の真実性を響かせることで、他のひとりの心の泉の真実性をふるわせ響きあうものです。その響きあいが美しい合唱となっても決してひとりひとりの心の声が見失われることはありません。

死のフーガ
           ツェラン  
           生野幸吉訳


夜あけの黒いミルクぼくらはそれを夕方に飲む
ぼくらはそれを昼に飲み朝ごとに飲むぼくらはそれを夜ごとに飲む

ぼくらは飲みまた飲む
ぼくらはそよかぜのなかに墓を掘るそこでなら寝るのに狭くはない

家に住む男がいて蛇とたわむれる彼は書く
暗くなると彼は書くドイツに向けてきみの金いろの髪マルガレーテ
彼は書く家から出るとそこには星がきらめく彼は猟犬を口笛でよぶ
彼はじぶんのユダヤびとらを口笛で呼び大地に墓を掘らせる
彼はぼくらに命令するさあダンスの音楽をやれ

夜あけの黒いミルクぼくらはおまえを夜ごとに飲む
ぼくらはおまえを朝ごとに昼ごとに飲むぼくらは夜ごとに飲む
ぼくらは飲みまた飲む
家に住む男がいて蛇とたわむれる彼は書く
たそがれるとドイツに向けて彼は書くきみの金いろの髪マルガレーテ
きみの灰の髪ズラミートぼくらはそよかぜのなかに墓を掘るそこでなら寝るのに狭くはない

男はさけぶこっちのやつら地の国にもっと深く掘れ歌えかなでろそっちのやつら
彼は腰ベルトの鉄に手をやる彼はそれを振る彼の両眼は青い
そっちのやつらスコップをもっと深く刺せこっちのやつらダンスの曲を弾きつづけろ

夜あけの黒いミルクぼくらはおまえを夜ごとに飲む
ぼくらはおまえを昼ごとに朝ごとに飲むぼくらはおまえを夜ごとに飲む

ぼくらは飲みまた飲む
家に住む男がいるきみの金いろの髪マルガレーテ
君の灰の髪ズミラート男は蛇とたわむれる

彼は叫ぶもっと甘美な死をかなでろ死はドイツから来た名手
彼は叫ぶもっとヴァイオリンを暗く弾けそうすればきさまらは煙となって空に昇る
そうすればきさまらは雲のなかに墓がもらえるそこでは寝ても狭くない

夜あけの黒いミルクぼくらはおまえを夜ごと飲む
ぼくらはおまえを昼ごとに飲む死はドイツから来た名手
ぼくらはおまえを夜ごとに飲む朝ごとに飲むぼくらは飲みまた飲む

死はドイツから来た名手彼の眼は青い
彼はおまえを鉛の弾丸(たま)射つ彼はおまえを正確に射つ
家に住む男がいるきみの金いろの髪マルガレーテ
彼はぼくらに猟犬をけしかける彼はぼくらに空中の墓をくれる
男は蛇とたわむれるそして夢みる死はドイツから来た名手

きみの金いろの髪マルガレーテ
きみの灰の髪ズラミート

『骨壷からの砂』(1948)、『罌粟(けし)と記憶』(1952) に所収。
* ツェラン(Paul Celan, 本名P.Antschel 1920-70) ルーマニアのチェルノフツィ(元オーストリア帝国、現ウクライナ)に生れ、両親を強制収容所で亡くし、戦後ウィーンを経てパリに定住。大学で教鞭(きょうべん)をとりながら独自の文体の詩を書く。セーヌ河に入水。詩集に『罌粟(けし)と記憶』(52)、『言葉の格子』(59)、『非在の者のばら』(63)、『光の脅迫』(70)等、詩論に『子午線』(61)。各国語からドイツ語への翻訳多数。
出典:『ドイツ名詩選』(生野幸吉・檜山哲彦編、岩波文庫、1993年)


救われた者たちの合唱
               ザックス
               生野幸吉訳


救われたわたくしたち、
そのうつろな骨からすでに死神が笛を刻んだ、
その腱(けん)をすでに死神が弓でかなでたわたくしたち――
わたくしたちの肉体はまだ
害(そこ)なわれた音楽につれてなげきを送ります。
救われたわたくしたち、
今なお絞首の綱はわたくしたちの首を絞めようと
眼の前の青い空気に、ねじられてさがっています――
今なお砂時計はわたくしたちのしたたる血でみたされます。
救われたわたくしたち、
今なお恐怖の虫はわたくしたちをかじります。
わたくしたちの星座は塵にうずめられました。
救われたわたくしたちは
あなたがたに願うのです、
あなたがたの太陽はゆっくりと見せてください。
星から星へわたくしたちを歩調に合わせてみちびいてください。
生きるということをもういちどしずかに学ばせてください。
さもないと一羽の小鳥の歌も
井戸の水をつるべにみたすひびきも
わたくしたちの拙(つた)なく封印された苦しみの口をひらかせ、
わたくしたちを泡だつ流れに押し流します――
あなたがたにお願いします。
噛みつく犬はまだ見せないでおいてください――
わたくしたちが驚いて塵のように崩れることも
あるかもしれません、あるかもしれません――
あなたがたの眼の前で崩れて塵になることが。
わたくしたちの織物を合わせもつのはいったい何なのですか?
呼吸をなくしたわたくしたち、
肉体が瞬間という方舟(はこぶね)に
救い上げられるよりはるか前に、
そのたましいは、かの方のもとへ深夜から逃れていたわたくしたち。

救われたわたくしたち、
わたくしたちはあなたがたの手をにぎります、
あなたがたの眼を見分けます――
でもわたくしたちを一つに合わせるのは、せめて別れだけなのです、
塵のなかで別れが
わたくしたちをあなたがたと一つに合わせるのです。

『死神の棲家にて』(1947)中の「真夜中すぎの合唱」の部に所収。
ザックス(Nelly Sachs 1891-1970) ベルリンのユダヤ人工場主の子として生れ、ナチス時代にはいった33年以降7年をドイツに過したのち母とともにスウェーデンに亡命。他の家族は強制収容所で死亡した。スウェーデン語の詩をドイツ語に翻訳するかたわら、民族の運命を歌う詩を書き続ける。詩集「死神の棲家にて』(47)、『星の蝕』(49)、『逃亡と変容』(59)、劇詩『エリ』(51) 等。66年ノーベル文学賞を受賞。
出典:『ドイツ名詩選』(生野幸吉・檜山哲彦編、岩波文庫、1993年)

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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