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崎本恵の言葉。『こころうた こころ絵ほん』に寄せて。

 新しい詩とうたの本『こころうた こころ絵ほん』2012年3月11日発売。
 A5版並製192頁。好評予約受付中です。
 全国書店での注文。Amazonのネット注文。出版社イーフェニックスへの直接Fax(046-293-0109)。
 いづれの方法でも予約して頂けますと、発売日にお届けできます。
 詩集 こころうた こころ絵ほん

 前回書きましたように、この本には敬愛する作家・詩人の崎本恵(神谷恵)さんにお言葉を寄せて頂きました。お願いをご了承頂いたにも関わらず、私が新しい作品も追加するうちにページ数がいっぱいになってしまい、結果崎本さんがお言葉を簡潔にまとめてくださいました。詩集にはそちらを掲載させて頂きますが、ページ数にこだわらずに書いてくださった原文を、今回ご紹介させていただきます。ご了承をとても嬉しく思います。

以下は『こころうた こころ絵ほん』にかけてくださった崎本さんの言葉、原文です。


「高畑耕治の本質を質してみようかと……」 崎本恵

 これから書くのは、この詩集の解説ではない。著者の要望により「勝手気ままに思っていることを書いて」みようと思う。
 私は現代詩作家じゃないから……、と高畑耕治は遠慮がちにいう。過去に五冊の詩集を著し、雑誌「エヴァ」に扉詩(1996~1997サンマーク出版)を連載していた詩人が、「私は現代詩作家じゃない」という。ちなみに、詩集『海にゆれる』(1991年土曜美術社出版販売)の解説は中村不二夫で、詩集『さようなら』(1995年同上・21世紀詩人叢書25)の解説を書いたのはあの磯村英樹である。無名の、こつこつと書いている詩人たちが聞いたら卒倒しそうなほどのキャリアと交友歴があるがあるにもかかわらず、高畑が現代詩作家と呼ばれることを拒むのはなぜなのか。それはたぶん、韻文のなかで「詩」だけに「現代」という冠詞がついているせいかもしれない。現代短歌や現代俳句という表現がないわけではないが、短歌はあくまでも短歌であり俳句はあくまでも俳句である。なのに、なぜ詩だけが「現代」でなければならないのか。そこには高畑ならではのこだわりがありそうである。
 高畑耕治は私と同年代である。いや、かなり若いか(そこのところは友よ許せ)。それでいて、もう二十年以上も友人としてつきあってくれている。途中お互いに書かない時期があり、やりとりも中断してしまったが、お互いの作品について純粋に語り合い批評し合い、愚痴をいいあえる(傷をなめ合うという意味ではない)私の数少ない友人である。
 彼を初めて見つけたのは(たぶんこの表現がいちばんぴったりとくる)、「おやすみなさい」という作品を読んだときである。

 風たちぬ、いざ生きめやも。読むのは途中でやめたけれど/生きめやも/へんてこりんなこの響きなぜか/忘れられず/わたし好きでした/息むってことば知っていますか?/生きるじゃないよ/わたし知らなかった
 で始まる詩である。父親の名を明かせない子を産もうとする女性のまさにその瞬間を描いている作品はこう結ばれる。生きることはなんだかわたしには/くるしいことみたいだけど/うまくいくことないけど/あのひととすごしたくるしい時間/この子を産んだあのとき/わたし/しあわせでした//この子の名は/ゆらら/へんてこりんな響き/好きだけど/この子にはめいわくかな?/月のひかりと波のこども/ゆらら/もうおやすみ /ね/泣きつかれたら/やすめやも/明日めざめたら/もいちどゆっくり/息めやも (詩集『愛のうたの絵ほん』 収蔵)。

 彼がこの詩を書いていた頃、私も「息」という詩を書いている。紙面の都合上紹介することはできないが、表現方法は違っていてもそのモチーフがとてもよく似ていた。生きること、息をすること。それはひととして生きる最低限のしあわせのかたち。私はこころのどこかに「もうひとりの私」を見つけたような感動を覚えていた。高畑も私の詩集「てがみ」をよく評価してくれた。ちなみに、私の「てがみ」も「現代詩」と呼んでくれたひとはほとんどいない。高畑に比べ、私の成熟度はかなり遅かったようだ。その後しばらく交流が続いたが、彼は詩を書かなくなり私は小説だけに専念するようになった。そうしてしばらく時が過ぎ、彼はまた積極的に詩を書くようになった。今回詩集『こころうた こころ絵ほん』をまとめ上げたが、相変わらず「私は現代詩作家じゃない」とはにかみながらいい続けているところが彼らしい。

 少し脱線するが、あるビルのエントランスで作家の福島次郎とばったり遭ったことがある。私たちはありきたりな雑談を始めた。私は訊いた。「福島さんは私小説作家って呼ばれることを是としてます?」「私小説の定義を言ってみろ」「自らの考え、生活を一分一厘も歪めることもなく写し、それを手がかりとして自分にも解らなかった自己を他と識別する完全な独言、他人の同感を得ないもの。もうひとつは、材料だけ自分の生活を用い嘘を加えて組み立て、他人に同意を求める小説」「誰だそんなこと言ったのは」「藤枝静男さんだったか、たしか『空気頭』かなんかで書いてませんでしたっけ」「ああ……」。福島さんは少し考え「定義なんかどうでもいいんだ。虚もあれば実もある。ようは書かないではおれないもの、内に秘めておくには耐えられない、そうして生まれて来る言葉を綴るだけ、それだけだ。他人がどう呼ぼうが勝手だが、そういう意味ではぼくは私小説作家じゃないな」「旧約聖書のエレミヤみたいですね。『主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の、わが骨のうちに閉じ込められいるようで、それを押さえるのに疲れ果ててて、耐えることができません』みたいな」「そんな高尚なもんじゃないけど、まあな」とここで福島さんゆかりの作家たちがなだれ込んできて三島由紀夫の話しになった。私は黙ってその場を後にした。
 私小説があるのなら、現代私詩もあるのかもしれない。ならば、高畑は現代私詩作家だろうか? ここのところは直接問いただしていないのでなんとも言いがたいが、福島さんの応えた内容に限りなく近いことを彼はいいそうである。彼のブログから拝借すれば、こういうことになる。

 詩の語彙を豊かにする努力、取り組みは、詩を書く上で大切だが、生きた詩の言葉は、伝えずにはいられない思い、織り込められるねがいの、強さ、やわらかさ、温度と、心のリズムの表れなので、生まれてくる顔かたちは、その思い、ねがいのままに、赤ん坊ひとりひとりのように、異なってくる。祈りと叫びの詩は自然に、透明度の高い、抽象度の高い、透明な硬質な光の姿で。まっすぐな柔らかいな思いの詩は、語りかける人の生の声に近いぬくもりで包みこむような響きとなって現れる。思い、願い、意味を伝えたい、そのためにいちばんわかりやすい言葉を選ぶ詩人に私(高畑)は共感する。
 言葉の象牙の塔をこねくりあげて、一般の読者にはわからないだろうと仲間うちで持ち上げあう人間の知的な言葉の書き連ねを、私(高畑)は詩とは思わない。万葉集にも「無心所着歌」などの言葉遊びがあったし、いつの時代にもあった。だが、どれもつまらない。童謡や童話の言葉の良さを感じとれる心と、その良さにに近づきたいと思う謙虚さがない人間には、他人の心に響く詩は所詮生まれてこない。
 詩は、祈り、ねがい、人を愛する思いで、ひとりの人としての切実な思いだからこそ、他のひとりの人の心になぜか伝わるものとだけ信じ、詩はそこにしかない。多数者の多数者への言葉に詩はない、ぼくら、我ら、国民のみなさん、といった言葉には嘘を感じてしまう。
 書かずには、伝えずにはいられない思いを織り込めうたうという、一番大切なものを見失わなければ、詩は生まれてくる。それ以外のこと、表現方法や形式は、努力し工夫すればより良くできる二次的なもの。読者の好き嫌いはどうにもできないのだから、作者は個性のありよう、心のひろがり、思いの幅を、窮屈に狭めずに、伝えたい、伝えずにいられない思い、生まれでてこようとする姿を生かすことが大切である。


 かなりはしょってしまつたが、実にわかりやすい。「やさしい手をおいてくれる」「看護婦の乙女が詩」、「詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとを」感じ、「人情のいぢらしさに自然に涙ぐましくなる」と書いた萩原朔太郎そのものである。
 彼のブログからかなり引用してしまったので、ついでに「ブログ 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想 」(http://ainoutanoehon.blog136.fc2.com/)も少し紹介しておこうと思う。「松岡正剛の千夜千冊」(http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/table_list.html#table1)の愛読者であった私は、他にも似たような解説をしてくれるブログを探していた。なんということはない。松岡さんとは似て非なる切り口だが、私のすぐ側にいたのである。高畑耕治が。彼の詩があまりにも分かりやすいので誤解されがちだが、高畑も博覧強記な人間である。万葉集・源氏物語・定家・俊成・式子内親王・正徹・梁塵秘抄・室町小唄・本居宣長・アイヌ神謡・峠三吉・原民喜・森栄介・朔太郎……。西洋文学では、ヘルダーリン・ボードレール・ヴェルレーヌ・ノヴァーリス・マラルメ・ダンテ・ツェラン・ザックス・ケプラー・ポー・ルクテウス……。数え上げれば切りがない。浅学な私は高畑に教わってばかりだ。作家でも詩人でもそうだが、古今東西の名著を読まない人間はまともな物書きにはなれない。そして、書かない者は詩人でも作家でもない。高畑にとっては福島さんと同じで、どう呼ばれようがもうどうでもいいだろうと思う。最後に、この詩集の中から、高畑耕治の一番書きたかったであろう詩を紹介して終わりたい。

 星の愛 星の祈り

傷つけられた生きものたちの悲しみは
消えない
傷つけた記憶の濁りは
消せない
枯らした樹木 隠れた木霊(こだま)こだま木霊
殺された生きものたちとの大切な
交わりの記憶 失われてゆくぬくもりに
こころを痛めたかけがえのない 時

この星にたまりこんだ悲しみは
張りつめ張り裂けるまで膨らんでしまったから
この星にあまりに願いをかけすぎたから
星の苦しみ
星の痛みを感じとりたい

揺れている星の涙をみつめて
濁ったわたしをあらい流したい
死んでしまった生きものたちを抱き
悲しみ苦しんでいる生きものたちをあたため
宇宙へ祈りつづけている
美しい星
愛(かな)かな愛しい星の滴に溶け
失われた愛の森へこぼれ落ちたい

もう一度
星のこころが語りかけてくれますように
星の愛 星の祈りを聴きとれますように
死んだ生きものたちと交わりあえるひかり
この星の涙から微笑みが
悲しみから愛が香りだしますように

星のこころにつつまれ
祈り 愛したい
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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