正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読み返して考えたことを記します。
子規は、
藤原俊成が『古来風躰抄』で
「歌の本體には、ただ古今集をあふぎ信ずべき事なり。」(ただ古今集を理想と仰ぎ信じるべきである)としてから数百年間の常識を覆そうとして、
「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候。」(再び歌よみに与ふる書)と主張しました。この触発的な文言だけに反応すると子規の本意を見逃してしまうにも関わらず、私は若いときに子規のこの主張を鵜呑みにして、古今集はくだらぬと決めつけてしまい、まともに読んだことがありませんでした。
資質的に万葉集のなかの「正述心緒」のような率直な歌が好きだということを差し引いても、読む前に嫌いと決めつけた自分はお粗末だと今思います。古今集を読み返してみて、感じたことは、良い歌もあり、良くない歌もある、という、とても当たり前のことです。
でも、詩は個人の心からしか芽吹かないからこそその存在価値があるという根本を考えると、様々な人の歌が集まった和歌集そのものを、良い、下らぬ、と決めつめるのは、とても貧しい見方だと今は思います。
現代にもそれは言えて、詩が掲載される商業詩誌や同人詩誌で詩を選別する見方や、どの詩人団体に所属しているかにより、詩作品そのものを読み取る手前で、詩人を選別し良し悪しを決めつける傾向については、自分も含めて、とても愚かなことだと自戒しています。肩書きに関係なく、良い詩は良い、それに向き合うほうがよっぽど豊かな心になれて、世代を超えて通じ合える、人間の感情に根ざす文学が生まれると思います。
次のような、子規の主張の核心そのものには、私は今も強く共感します。
「歌は感情を述ぶる者なるに理屈を述ぶるは歌を知らぬにや候らん。」(四たび歌よみに与ふる書)「詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相違あるべくも無之、もし感情を本とせずして理屈を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。」(六たび歌よみに与ふる書) また、子規自身が、ここに主張した心を込めた歌を読んでいること、病床でのいのちをみつめる歌に感動し、私も良い詩歌を生みたいという思いを強くします。子規の歌のうち私の好きな数首を
「愛しい詩歌」」に束ねました。
出典は
岩波文庫『歌よみに与ふる書』。
青空文庫http://www.aozora.gr.jp/の正岡子規文献も充実していて無料で読めるので利用させていただきました。『古来風躰抄』抜粋箇所は、
「やまとうた」(水垣久氏の和歌ホームページ)によります。
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