近代詩が生まれた明治時代からの約百年間に創られた
女性の詩人の詩をみつめなおしています。
『ラ・メール 39号、特集●20世紀女性詩選』(1993年1月、編集発行人:新川和江・吉原幸子、発売:思潮社)に採録されている詩人の一作品・一輪の花たちのなかから、私が好きな、木魂する思いを揺り起こされる詩について、詩想を記しています。
今回の詩人は、
滝いく子(たき・いくこ、1934年昭和9年生まれ)です。
履歴には、
詩集『娘よおまえの友だちが』『あなたがおおきくなったとき』『金色の蝶』『今日という日は』、ほかに評伝、エッセイなど、と記されています。
1989年の詩集『今日という日は』の収録作品です。
同じタイトルの征矢泰子のひらがなの詩を、前々回紹介しました。「
征矢泰子の詩(一)。かぎりなくすきとおった、詩」。
今回の滝いく子の作品は、タイトルは同じでありながら、まったく違う表現、けれどもどこかで通い合い響き合っていると感じさせる詩です。それこそ、詩という文学表現の豊かさ、だと私は思います。
通いあっているもの、それは
人間性、人間味ある感情をもっとも湛えているもの、なみだ、です。人間である限り、本当の野獣に堕してしまわない限り、世界中で通じる心の言葉、ひかりです。
そのひかりの真実を伝えるための表現の仕方はまったく対象的です。
征矢泰子は、こころの中のひだのふるえに沿うように一音一音ことばを拾いあげました。
滝いく子は、この詩で、こころの中は書きません。こころも書きません。起こった出来事と母の行為と姿を、
少女の眼で、そのまま映しとります。
映像のように。
とても、こわく、痛く、悲しい、出来事。そういう事実があったと、伝えるために。
そのとき、一人の人間が、失われた幼い子の命と心を思いやり、あふれ、こぼれ、死んだ子の頬を濡らしたなみだがあったこと。
この表現を選んだ詩人は、このことを感情を交えずに書くことが、きっと、人間である限り失われない心に響く、響き伝わる、そう信じ、願い、祈っています。
私の心には響き、伝わり、心うたれました。通い合う涙がふるえだすのを感じたのは私だけではないと、私もまた信じ、願い、祈る一人の人間です。
なみだ
滝いく子あの日 わたしは
炎天の満洲を歩いていた
ボロボロの敗戦難民となってゆれながら
ひもじさと恐れと疲れにもうろうとして
眼の前も
そうして 明日も見えなかったが
ともかく 生きて 歩いていた
赤い土ぼこりがひくく舞う足もとに
ポツ ポツ と
もう立ちあがれない人たちがしゃがみこみ
無表情に 過ぎていく群を見送っていた
みんな 黙っていた
小さな草むらがあった
かくれるように そこに おさなごがいた
服も下着も奪われた姿で
死んで
全身が濃い灰色になっていた
母とわたしは 草をむしっておさなごにかけた
女の子ね、と母がいった
こわかったろうに!
見つめる母のなみだが 女の子の顔にこぼれおち
女の子はまるで泣いているように
わたしの母のなみだを頬に伝わらせて
戦乱の満洲の炎天下にひとりぼっち
黒ずんで横たわっていた
次回も女性の詩人の歌声に、心の耳を澄ませます。
☆ お知らせ ☆
『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年
3月11日、
イーフェニックスから発売しました。A5判並製192頁、定価2000円(消費税別途)しました。
イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
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「ともかく 生きて 歩いていた」作者と、「全身が濃い灰色になっていた」おさなご。見つめる少女の目には、おそらく涙はなかったでしょう。心が動くには、あまりにも壮絶な状況であるからこそ、心をかたく閉ざし、目だけになって居たのだろう、と思います。だからこそ、映像が深く心に刻まれた。母の涙は、失われた幼子への涙であると同時に、わが子を守らねば、という決意の涙でもあったろう、と思いました。