萩原朔太郎が試行錯誤のすえにとりまとめた
『詩の原理』は、彼の詩論の集大成であるとともに、文学、散文、詩、日本の詩歌を考え味わううえで本質的なことを教えてくれます。数回にわたり、その要旨を読み返しながら、私が教えられたこと、考えたことを記します。各回とも、冒頭に私の言葉を記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。
初回は、
「第三章描写と情象」、「第十一章 詩に於ける逆説精神 2」にある、
詩とは何か、について言葉です。
初めに朔太郎は、芸術の表現様式について、美術や小説は「描写」(知性の意味での表現)であり、音楽や詩歌は「情象」(感情の意味を語ろうとする表現)であると、その違いを明確にします。小説は知性による構築物で描写する言葉を積み上げない限りできないと私も考えます。
一方、詩は、「たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。」、そしてより具体的に「詩とは主観に於ける意味を、言語の節や、アクセントや、語感や、語情やの中に融かして、具体的に表象しようとする芸術」だと、その本質を的確に捉えます。私は、私が小説家でなく詩人であるのは、私の資質が、主観、感情を言葉に融かして表象する「情象」に向いていて、知性による描写を積み重ねる作業には向いていないからだと感じています。
そのうえで朔太郎は、詩とは何か、たたみかけるように、熱く語ります。
詩は、「より人間的温熱感のある主観を、本質に於て持つべきものだ。」、詩は「心情《ハート》から生るべきものであって、機智や趣味だけで意匠される頭脳《ヘッド》のものに属しない」、詩は「主観に於ける感情の燃焼で」、「痛切な訴えでなければならぬ。」と。これらの言葉に私は共感せずにいられません。
最後に彼は高らかに朔太郎の、詩観、詩の趣味を表明します。
「詩の中での純詩と言うべきものは、ポオの名言したる如く抒情詩の外にない。」、「実に抒情詩というべきものは恋愛詩の外になし」。
私は、詩の正統派はこれだと言い切ることは、排他的にそれ以外の詩を亜流、傍流、異端と決めつける偏狭さにつながり、つまらないことだと考えます。けれどもそのうえで、私は抒情詩、恋愛詩がいちばん好きな詩である詩人の一人であることに誇りを持ち、抒情詩、恋愛詩を愛し続けたいと考えています。
◎原典からの引用以下はすべて、
『詩の原理』の萩原朔太郎の原文の引用です。その核心の言葉を私が抽出し強調したい箇所は薄紫太文字にしました。
「(略)芸術は常に表現の様式で発想される。(略)あらゆる一切の表現は、所詮して二つの様式にしかすぎないのである。即ちその一は
「描写」であって、
美術や小説がこれに属する。描写とは、
物の「真実の像《すがた》」を写そうとする表現であり、
対象への観照を主眼とするところの、
知性の意味の表現である。然るに或る他の芸術、例えば
音楽や、詩歌や、舞踊等は、物の「真実の像」を写そうとするのでなく、
主として感情の意味を語ろうとする表現である故に、前のものとは根本的に差別される。この表現は「描写」でない。それは
感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば「情象」である。(略)あらゆる芸術は「描写する」か、でなければ「情象する」かの一であり、それ以外に表現はない。」
「(略)
詩は音楽と同じく、実に情象する芸術である。詩には「描写」ということは全くない。たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。即ち表現についてこれを言えば、
詩とは主観に於ける意味を、言語の節や、アクセントや、語感や、語情やの中に融かして、具体的に表象しようとする芸術である。故に詩を特色する決定の条件は、必ずしも形式韻律の有無でなく、又自由律の有無でもなく、実にその
表現が、本質に於て「情象」であるか否かにかかっている。もし実に
情象であるならば、言語は必然に「感情の意味」で使用され、語韻や語調や語感やの、あらゆる情的要素を具備するが故に、その表現は、必然にまた、
音律的、韻文的の特色をもち、かつ語感や語情の点に於ても、十分の詩的ニュアンスをもつようになるであろう。(略)即ち命題すれば、
詩とは情象する文学である。(略)」
「
詩は純美というべきものでなくして、
より人間的温熱感のある主観を、本質に於て持つべきものだ。すくなくとも吾人は、確信を以て一つのことを断定できる。即ち
詩は心情《ハート》から生るべきものであって、機智や趣味だけで意匠される頭脳《ヘッド》のものに属しないと言うことである。(略)」
「そもそも詩の本質感は何だろうか。
詩は「現在《ザイン》しないもの」への欲情である。現にあるところのもの、所有されているところのものは、常に没情感で退屈なものにすぎない。
詩を思う人の心は、常に現在《ザイン》しないものへ向って、熱情の渇いた手を伸ばしている。(略)」
「
詩の詩たる本質は、所詮《しょせん》どんなクラシズムの形に於ても、
主観に於ける感情の燃焼であり、生活的イデヤの痛切な訴えでなければならぬ。(略)」
「要するに
詩人は――どんな詩人であっても――所詮して主観的な感情家にすぎないのである。(略)詩に於ける主観派と客観派は、その表面上の相対にかかわらず、絶対の上位に於て、一の共通した主観を有し、共通したセンチメントを所有している。そしてこの
本質上のセンチメントが無かったならば、実に「詩」というべき文学は無いのである。」
「(略)丁度、科学が人生に於ける詩の反語であり、小説が文学に於ける詩の反語であるように、叙事詩は詩に於ける詩の反語である。換言すれば、それは主観に反動するところの、最も高調された主観的精神である。故に
真の純一のもの、主観の中の純主観であり、詩の中での純詩と言うべきものは、ポオの名言したる如く抒情詩の外にない。(「実に詩というべきものは抒情詩の外になし。」ポオ)他はすべてその反語であり、逆説であるにすぎないのだ。」
「此処に至って詩の正統派は、遂に浪漫派に帰してしまう。なぜなら浪漫派は、始めから純主観の情緒主義によって立っていたから。のみならず浪漫派は、恋愛を以て中心的のものに考えていた。けだし
恋愛の情緒は、あらゆる主観の中で最もセンチメンタルであり、最も甘美な陶酔感をもっているのに、その感傷や陶酔感こそ、抒情詩の抒情詩たる真の本質のものであるからだ。そこでもしポオの言葉を附説すれば、「
実に抒情詩というべきものは恋愛詩の外になし」(略)。」
引用は、
青空文庫(
http://www.aozora.gr.jp/)入力:鈴木修一校正:門田裕志、小林繁雄、を利用しました。
底本:「詩の原理」新潮文庫、新潮社 1954年。
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