尾崎放哉(おざき・ほうさい、明治十八年・1885年~大正十五年・1926年、鳥取市生まれ)の
自由律俳句を感じとっています。出典から、私の心に特に響いた句を選び、似通うものを感じた句にわけ、◎印の後に私の詩想を記します。
前回までは彼を取り巻く世界との関係性が伝わってくる句を取り上げました。今回は、彼にとってそのようであった世界に置かれた自己を凝視する句です。彼の最良の句はここにあると私は思います。
3.世界の一部としての己の肉体を凝視する句己のものでありながら、世界を構成する物でもある肉体を、肉体の外側から見つめている句です。
井戸の暗さにわが顔を見出す◎覗き込んだ井戸の水面に映る自分の顔を凝視する姿に、たとえば画家ゴッホが自画像を描いている姿が重なります。井戸をもう知らない方は、鏡を覗き込む姿に置き換えてもよいと思います。
作者の眼に映る顔は、自分の者でありながら、心から遊離した物であり、それがそのようにあることの、違和感、不思議さが水面の波紋のように揺らいで感じられます。
わがからだ焚火にうらおもてあぶる◎この句も「わがからだ」でありながら、作者の眼は、からだを遊離した外側から眺めています。食料とするために魚をうらおもてあぶるのを見つめる眼差しと違いがありません。「からだ」という物がこの世界にあることの、虚無感に近い違和感が滲んで感じられます。
淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る◎石川啄木の短歌「はたらけどはたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」と、魂が木魂しあっているような句です。
冒頭の「淋しいぞ」は心からもれ出た声そのままで、心打たれます。そのむき出しであることの強さと、言葉とした後の余韻が句を最後まで染め上げています。
肉がやせて来る太い骨である◎病床の肉体を見据えた歌。淡々とした口調の底に、死を意識した諦念が肉声となって漏れ出ていると感じます。
4.自己の内面凝視の句 井泉水が「心境そのままの真純さ」と言った心の句。
漬物桶に塩ふれと母は産んだか◎自分が選んだ生き方であり自分自身が悔いることはなくても、母の願い、夢、期待に、応えてあげられなかあったという、悲しみがもれ出た声、心打たれます。
笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかつた◎運命のようなものを悟った諦念とともに、生の終りが近づいているのを感じて、振り返っている想いの深さを感じます。「真率さ」そのものです。顔の作りとともに心のかたちと生き様、そのすべてについて自分の生は、笑ってさえ泣き顔がいつも滲み出していたと。淋しく、悲しい句だけれど、心打たれます。
淋しい寝る本がない◎病床の最晩年の句。何もかも捨て去り、自由律俳句だけに行き、その俳句でも修辞を削ぎ落とした、裸の言葉。ここまでくると、専門家を名乗るような詩人、歌人、俳人のなかには詩歌、俳句と認めたがらない者もいると思います。でも本当は、つまらない専門意識、こだわりに邪魔されて、この句の良さがわからないのだと私は思います。
多くの一般の読者が放哉の句に共感し、いいと感じるのは、このさりげない句に、彼の生涯、生き様が流れ込んでいて、感慨の深さ、感動が、句にあることを、先入見なく無心に受けとめられるからだと私は思います。
せきをしてもひとり◎人生一生の感慨が込められていて、深く心に刺さります。俳句と心中した最期の一言のような。尾崎放哉が切り拓きたどり着いた境地の、誰にもまねの出来ない、修辞を削ぎ落としきった、心境そのままの真純さの句。悲しく美しく、私はこの句を愛します。
次回からは、自由律俳句を詠んだもう一人の強烈な個性、種田山頭火の自由律俳句を感じとります。
出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房) ☆ お知らせ ☆
『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年
3月11日、
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