今回は、上野の国立西洋美術館での
「システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡」で感じとれた想いを記します。
美術館の入り口前庭にある、
ダンテの『神曲』に喚起された
ロダンの彫刻「地獄門」、人物を拡大した
「考える人」に再会して、嬉しく思いつつミケランジェロ展に入りました。
ルネサンスを代表する芸術家
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)が生きていたのは500年ほどまえ、それほど遠い過去ではないとわたしは感じます。
写真で見ることの多い
彫刻「ダビデ像」にわたしは、肉体は美しい、と教えてくれました。美しい芸術作品として表現できると教えられた、この表現が正確かもしれません。
今回、500年のときを越えて、尊敬するミケランジェロの作品と対面できたことに、創作者のひとりとして、深い喜びを感じました。
彼が完成させた作品を眼前にするとき、わたしは鑑賞者であるとともに、創作しつつあるミケランジェロの作品を凝視する眼差しに、自分の視線をいやおうなく、重ねてしまいます。
「彼もこの位置からこの作品を見つめていた」、そう感じられたことが、わたしにとってはいちばんの刺激、喜びでした。
そのうえで、わたし自身の詩の創作と重なる、次のことを思わずにいられませんでした。
一点目は、システィーナ礼拝堂に彼が描いた
聖書をモチーフにした天井画と、
正面壁画の「最後の審判」について。
現物は現地でしか見られなくても、発見、教えられたことが多くありました。
天井画は、天上に届く台を組みたて、その頂上に寝そべりながら彼が絵を描いたと聞いて、人間らしさと情熱を身近かに感じました。
フレスコ画は、漆喰(しっくい)が乾くまでの短い時間に色彩を描き切ることが必要で、そのために事前に彼が綿密に、構図や細部の素描の練習を重ねていることにも、深い共感を感じました。天才も努力してるんだと。
「最後の審判」は同時代の批評家に、男女の裸体の満ちあふれる迫力を、浴場のようだと酷評され、後世の画家により下半身に布を書きくわえられることで破壊をまぬがれたという、逸話も知りました。
わたしは、ルネサンスの良さは、人間の肉体を貶めずに、美しいと感じる感情を描きあげ造形したことにあると思います。だからダビデ像を美しいと感じるのと同じように、この巨大な壁画の男女の肉体も美しいと思います。
壁画の左下部分にはどくろも描かれていて、生死への眼差しを強く感じました。
二点目は、展示されていた作品について。
浅浮彫「階段の聖母」は、なめらかな起伏をとても美しく感じます。人の肌のようです。
デッサンの線に、絵を描く力量があらわれると感じました。彼も習作を積み重ねて技量を高めていったことに共感と敬愛の思いを抱きます。
最も心に残ったのは、死の直前に彫られたという、未完成の小型の
木彫作品「キリストの磔刑」です。未完成だけに、木彫りのノミ痕が、無数に残っています。その一筋ひとすじが、彼が打ち込み削った痕です。
とてもあたりまえのことだけど、どんな美しい作品も、壮大な作品も、ノミの一撃ちひとうち、絵筆の一筆いとふでの、模索の積み重ねであること、ミケランジェロもそのように創ったことを目の当たりに感じて、感動しました。
芸術が好きだ、芸術が好きな人が好きだ、芸術は人間だからこそ生み出せる創作、伝えられる美だと、励まされ、力を授かりました。
次回から、敬愛する詩人オウィディウスの『変身物語』をみつめていきます。
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