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オウィディウス『変身物語』(八)。悲しい吠え声を

 ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年~紀元17か18年)の『変身物語』に私は二十代の頃とても感動し、好きになりました。
「変身」というモチーフで貫かれた、ギリシア・ローマ神話の集大成、神話の星たちが織りなす天の川のようです。輝いている美しい星、わたしの好きな神話を見つめ、わたしの詩想を記していきます。

 二回に分けて、トロイア戦争の敗戦国の王妃ヘカベと、娘のポリュクセナ、息子のポリュドロスの悲劇をみつめています。この一節のオウィディウスの言葉、詩句には、とても強く迫ってくるものがあります。生を凝視し歌う彼の魂が言葉に乗り移っているように、わたしは感じます。

 今回は、息子ポリュドロスの死を目の当たりにした母へカべの絶望です。
 前回に続き、今回も、これでもかこれでもかと、母へカべを襲います。最愛の子どもたち、最後のひとりまで、奪われたヘカベは、絶望し、復讐し、悲しい吠え声をあげさまよう、犬へと変容します。

 神話の世界と交わり行き交いする物語は、史実そのものではありません。ヘカベは、幼い末息子のポリュドロスの死を見せつけられたあげくに、絶望のうちに、死んだのかもしれません。

 詩人オウィディウスは、彼女の生きざまと、思い、声を伝えようとしたこの作品で、息子を殺害したトラキアの王に対して、ヘカベに復讐、あだ討ちを遂げさせます。敗戦国の、身内すべてを殺害された、独り身の老女が、王を殺せたか? 史実を伝えることより、オウィディウスは、願いも物語を紡いだのだと、私は思います。
 オウィディウスもまた、最愛の者を殺害された者の、絶望を、そのまま闇に葬り去ることが許せなかったのだと、許せないのだと私は思います。
 『変身物語』の母ヘカベの絶望と復讐と、悲しい吠え声は、この物語が生まれたとき、彼女ひとりだけのものではなくなりました。絶望にほうり出された、悲しく、心痛める、ひとりひとりの声に高められ、変身した、と私は思います。
 「この成りゆきではヘカベが可哀そうすぎる」、あまりにと、私の心にも、悲しい吠え声が、いまも聞こえます。

● 以下、出典の引用です

「(引用前回からの続き)
わたしは何もかも失ってしまった。が、いましばらくは生きていようとおもうだけの理由が、ひとつだけ残っている。この母にとっていちばん可愛い子、いまではひとりだけになってしまったが、もともとは末息子の、ポリュドロスがいることだ。(略)――それはそうと、この娘(こ)のむごい傷と、無慈悲な血にまみれた顔とを、すぐにも洗ってやらねば!」
こういうと、白髪をかきむしりながら、老いの足をひきずって海岸へと出かけていった。
「さあ、みんな、水がめを渡してちょうだい」
不幸な母親は、トロイアの女たちにこう呼びかけた。澄んだ水を汲むためだ。と、そのとき、岸にうちあげられたポリュドロスの死体が目にはいった。トラキアできの剣でつくられた傷が、大きく口をあけている。トロイアの女たちは叫びをあげた。が、ヘカベは、悲しみに声も出ない。まさに悲しみが、声と、こみあげる涙を、同時に呑みこんでしまったのだ。まるで固い岩そっくりに、からだが硬直する。足もとの地面に目をそそぐかとおもうと、けわしい顔を空へ向ける。目の前の息子の顔と、傷とを、見こう見するが、目はどうしても傷のほうへ行きがちだ。怒りがたぎり、怒りで武装する。
(略)
こんなしらをきり、でたらめの誓いをたてている男を、ヘカベははげしい勢いでにらみつけた。怒りがこみあげて、にえたぎる。がまんならなくなって、相手をつかまえると、捕虜仲間の女たちを呼んで、加勢を頼んだ。不実な男の両眼に指を突きさして、目の玉をくりぬく。怒りが、そんなにも彼女を凶暴にしていたのだ。それから、さらに手を突っ込むと、相手の罪深い血でわが身を汚(けが)しながら、もうそこにもない目の玉のかわりに、目のあった場所をえぐり取った。
 トラキアの民は、自分たち王の災厄を憤り、得物(えもの)や石を投げつけてヘカベを攻撃し始めた。ヘカベは、しわがれたうなり声をあげながら、飛んで来る石を追って、それに噛みつこうとする。ものをいおうとして口を開くが、言葉にはならないで、吠え声が出て来たのだ。――この場所は、いまも残っていて、この出来ごとによって「犬の墓」と呼ばれている。ヘカベは、むかしの不幸を末長くおぼえていて、この後も、トラキアの野に、その悲しい吠え声をひびかせた。
 ヘカベの運命は、味方であるトロイア人はもちろん、敵であるギリシア人の心をも動かし、さらには、あらゆる神々の哀れをさえ誘った。そうだ、あらゆる神々のだ。ユピテルの妃であり、その姉妹(きょうだい)でもあるユノーさえもが、この成りゆきではヘカベが可哀そうすぎるといったくらいだったのだ。

● 引用終わり

 今回の最後に、ヘカベの悲しみと、木魂する私の詩を響かせます。お読み頂けると嬉しいです。

  詩「母」    (高畑耕治HP『愛のうたの絵ほん』から)


 次回も、この天の川に輝く、わたしの好きな神話の美しい星を見つめます。

 出典:『変身物語』オウィディウス、中村善也訳、岩波文庫
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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