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赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記しています。

 今回と次回は、論文「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」です。
 この論文を読んで私は、赤羽淑の、和歌の創作と、創作主体の内面についての、深い共感力と洞察力を、改めて感じずにはいられませんでした。

 以下、そのことを特に感じ共鳴した箇所を抜粋して、創作者の一人としての私の詩想を添えてゆきます。
 ◎の後の文章が、出典からの抜粋文、◇の後の文章が共鳴した私の詩想です。

◎作品が少ないにかかわらず高く評価されてきたことは歌自体の価値によるもの◇創作者としての私のいちばんの願いも、作品自体、歌自体の価値こそが評価され続けることです。式子内親王にとって最上の賛辞だと思います。私もまたこの言葉の通りだと思います。

◎周辺の事情が不明であることも作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方にかなって好都合である。

◇「作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方」、とても根本的なことだと思います。
同じ時代の人物、近い時代の人物ほど、ひどいばあいにはろくに作品を創らなくても話題性でもてはやされたりもします。詩人の場合、同時代に理解者をに得られず死後になって作品自体の価値を見直されることも多くあります。
 近視眼になることに気をつけて大きな心で見つめなおせば、豊かな古典の流れに輝き続けているものは、人間の心に共感をひき起こさずにはいない作品自体の美しさです。創作者と日常の衣食住なしには生存できませんが、
文芸の価値は作品自体が、作品だけが語り続けてくれると私も考えています。

◎たんなる表現技法や構想力の問題ばかりでなく、創作の全過程に作用する能力を予想したいい方である。それは、創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力ともとれる。
「うかりける」の歌についてみると、懸詞・縁語・倒置法・逆説などさまざまの趣向や技巧を凝らし、一首を複雑と曲折と暗示でみたしながらそれらを渾然と一体化している。その過程は並大抵の苦労ではなかろうが俊頼は見事に言いつづけ、詠みおおせているのである。


◇優れた文芸作品、芸術の創作主体、創作者への共感と、深い洞察に満ちた言葉だと私は感じます。
言葉による、表現技法、構想力、さまざまな趣向と技巧が、文芸には不可欠です。言葉で生み出す創作芸術なのだから当たり前のことで、それなくして芸術は創れません。
けれどそこまでは、職人の手習いで学べて模倣できる技の習熟度で巧拙を比較しうる段階です。
そのうえで、その価値を最後に芸術にまで、より高めうるかどうかは、「それらを渾然と一体化」する「創作の全過程に作用する能力」、「創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力」にあると、私も感じ、思います。

◎定家が、これは創作主体の胸裡ふかく根ざしたものだから表現だけを模倣しても及ばない姿であるとしたのは卓見

◇『定家の歌一首』の著者だからこその言葉だと思います。藤原定家は、技巧家との一般的な評価から踏み込んで、定家が「表現だけを模倣しても及ばない姿」があり、それは「創作主体の胸裡ふかく根ざしたもの」だと知りぬいた創作者であったことを教えてくれます。


● 以下は、出典原文の引用です。(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています。)

 式子内親王は残された作品が少ないが古来高く評価されてきた歌人である。また当時の歌壇とはほとんど没交渉で孤独な生涯をおくられたにもかかわらず、新古今風を代表する歌人の一人と認められている。その作品や身分の高貴さが際立っているのに反し、周辺の事情や伝記などは全く模糊として謎につつまれている。そのためか古来さまざまの憶測や伝説が生じ、歌風についての理解もまちまちであった。
 作品が少ないにかかわらず高く評価されてきたことは歌自体の価値によるものであろうし、周辺の事情が不明であることも作品自体に語らせるという文芸理解の本来的なあり方にかなって好都合である。そしてひとりの作歌活動をつづけてその歌風が時代の先端をゆくということは、個人様式と時代様式のかかわりを示すものとして興味深い。歌風についての従来の評価がまちまちで、極端に異質的な理解や対立的な位置づけがなされて来たが、それも様式の問題――作風の形成過程――として統一的に把握できのではなかろうか。

(略)
 式子内親王の歌についての批評のなかでもっともするどくその核心にふれるものは「後鳥羽院御口伝」であろう。
  近き世になりては、大炊御門前斎院・故中御門の摂政・吉水前大僧正、これら殊勝なり。斎院は、殊にもみもみとあるやうに詠まれき。
「殊にもみもみとあるやうに詠まれき。」と評されている。「もみもみ」ということが歌の風体についていわれているのか、そういう風体を導く創作態度をいっているのかこの部分だけでは判然しない。

「御口伝」ではほかに俊頼と定家について「もみもみ」という標語を用いているので、その方面から解明の手がかりを得ようと思う。
まず俊頼については、
  俊頼堪能の者也。哥の姿二様によめり。うるはしくやさしき様も殊に多く見ゆ。又もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。
この一様すなはち定家卿が庶幾する姿なり。
   うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を
  この姿なり。
とあり、定家については
 定家は、さうなき者なり。・・・・・・やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。
と評している。両者とも「堪能」とか「生得の上手」と称されている歌人であるから、そういう特殊な能力によって詠み出された「人はえ詠みおほせぬやうなる」「まことありがたく見ゆ」る姿が「もみもみ」なのである。

引例となった「うかりける」の歌について定家は「これは心ふかく言心まかせてまねぶともいひつづけがたく、まことにおよぶまじきすがた也。」(近代秀歌遺送本)と評している。模倣を許さぬような卓絶した表現形態だというのである。
「後鳥羽御口伝」の「人はえ詠みおほせぬ」といい、この「いひつづけがた」いような姿というのは、たんなる表現技法や構想力の問題ばかりでなく、創作の全過程に作用する能力を予想したいい方である。それは、創作に伴う苦悩に耐えぬいて表現を完結させる力ともとれる。
「うかりける」の歌についてみると、懸詞・縁語・倒置法・逆説などさまざまの趣向や技巧を凝らし、一首を複雑と曲折と暗示でみたしながらそれらを渾然と一体化している。その過程は並大抵の苦労ではなかろうが俊頼は見事に言いつづけ、詠みおおせているのである。

定家が、これは創作主体の胸裡ふかく根ざしたものだから表現だけを模倣しても及ばない姿であるとしたのは卓見で、同じような傾向を示す定家を後鳥羽院が評しているのといちじるしく対蹠的である。すなわち、
  惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。ただ、詞・姿の艶にやさしきを本体とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばば、正体なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の者にてあれ。(後鳥羽院御口伝)
と、定家を「生得の上手」と認めながら、それを詞や姿の上に限って心の作用との関連から論及することをしない。しかし、「その骨すぐれざらん初心の者まねばば、正体なき事になりぬべし。」とあるから、何かとおるべきものが貫いていることは認めている。風体の上からいえば、歌のつづけがらにみられる渾然たる有機的統一、曲折に富みながら腰の強さなどを意味するのであろうが、それはやはり創作主体に帰すべきものであろう。

原文引用終わり

 出典:赤羽淑「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」『古典研究』第3号、1968年

 次回も、この論文を通しての詩想を記します。


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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