ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ
『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を読み、感じとり考えています。
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えていきたいと思います。
どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。
今回は10回目、ルソーが信仰の本質について述べた箇所です。
ルソーの次の言葉は、国家と宗教が結び付けられ、宗教の教義が国家の教義として義務付けられていた時代にあって、とても勇気のいる言葉だったと思います。キリスト教とイスラム教の十字軍での戦争、カトリックとプロテスタントの宗教戦争、それら紛争の歴史が絶え間なく積み重ねられてきた地で彼は言い切りました。
その結果、『エミール』は発禁の書とされ、彼は迫害をのがれ放浪する身となりましたが、ここに書かれた彼の言葉の、人間としての真実は消されることなく、読み継がれていくと私は思います。嘘、偽り、虚飾も媚びへつらいもない、言葉だからです。
仏教に深く染まった日本で育った私、アイヌの世界観に教えられ愛している私、プロテスタントの賛美歌に親しみ育った私は、どれか一つだけが正しいという主張にはうなづけず、心が引きちぎられ、人格が分断される想いにさ迷い、病みました。ですから、ルソーの言葉にとても勇気づけられ共感しました。いまも、共感した心の声を素直に聞こうと思っています。
「すべての個々の宗教」は、「すべて風土に、政体に、民族精神に、あるいは、時代と場所とに応じてある宗教を他のものよりもとくに選ばせるようななんらかの地方的な原因に、その根拠を持っているのだ。人びとがそれらの宗教によって適宜に神につかえているかぎり、それらの宗教をすべてよいものだとわたしは思っている。」
心の信仰、ということにも私は思春期、青春期にかけて、なぜか強いこだわりがありました。儀式を憎んでいました。生きてくる中で儀式的なものにもそれなりの効用もあり、美もあったりすることを知りましたが、本質的な想いは変わっていません。信仰は、心だと思っています。
「本質的な信仰とは、心の信仰だからである。神は、礼拝者が誠実なかぎり、どんな形式でささげようとも、決してその敬意をしりぞけはしない。」
宗教の不寛容さが生み出すおぞましさの歴史に、私は深い人間不信に陥りました。が、そんなのは本当の宗教性ではないという、ルソーの言葉に、どんなに勇気づけられたでしょう。
「どうかわたしが彼らに不寛容の残酷な教義を説いたりすることのないように、彼らをそそのかせて同胞を憎ませ、他人にむかっておまえたちは地獄に落ちるぞなどといわせたりすることがないようにしたいものだ。」
「自分の国の宗教を信奉し、愛する義務は、不寛容の教義のような、淳良な道徳に反する教義にまで拡げられるものではない。人びとをたがいに武器をとって反抗させ、彼らすべてを人類の敵とさせるものは、この恐しい教義である。」
私は、自分の宗派の信者以外の人間は敵とみなし地獄に落ちると決めつけられる者は、世俗の政治集団で、そこに宗教はないと思っています。 政教分離。政治と宗教は本質的に次元、精神性の方向性と深みの異なるものです。それをいっしょくたにして平然としていられる政治屋、この島国にもたむろしていますが、おぞましく感じ、厭わずにいられません。
「宗教の真の義務は、人間の制度から独立したものであることをよく心得ていてほしい。また、正しい心こそ神の真の神殿であること、どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること、道徳の義務を免除するような宗教は一つもないこと、真に肝要なことは、そういう義務だけであること、内面的な礼拝がそれらの義務の第一のものであること、信仰がなくては、どんな徳行もありえないこと、これらのことを忘れないでいてもらいたいものだ。」
宗教は「内面的な礼拝」です。それは「どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること」、隣人を愛すことに導く言葉ではあっても、隣人を殺すことを命ずる言葉では決してないと、私は思います。
● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。 わたしはすべての個々の宗教をそれぞれ有益な制度と見なしている。つまり、それは各国において、公の儀式によって神をうやまう一様な方式を規定しているものであって、すべて風土に、政体に、民族精神に、あるいは、時代と場所とに応じてある宗教を他のものよりもとくに選ばせるようななんらかの地方的な原因に、その根拠を持っているのだ。人びとがそれらの宗教によって適宜に神につかえているかぎり、それらの宗教をすべてよいものだとわたしは思っている。本質的な信仰とは、心の信仰だからである。神は、礼拝者が誠実なかぎり、どんな形式でささげようとも、決してその敬意をしりぞけはしない。
(略)
しかし、どうかわたしが彼らに不寛容の残酷な教義を説いたりすることのないように、彼らをそそのかせて同胞を憎ませ、他人にむかっておまえたちは地獄に落ちるぞなどといわせたりすることがないようにしたいものだ。
現注九五:
自分の国の宗教を信奉し、愛する義務は、不寛容の教義のような、淳良な道徳に反する教義にまで拡げられるものではない。人びとをたがいに武器をとって反抗させ、彼らすべてを人類の敵とさせるものは、この恐しい教義である。社会的寛容と神学的寛容とを区別することは、子どもじみた、無益なことだ。この二つの寛容はきりはなせないもので、一方だけを認めて他方を認めないわけにはいかないのだ。天使たちでも、彼らが神の敵と見なすような人びとと平和には暮らせないだろう。
(略)
信徒に説教をするさいには、わたしは教会の精神よりは福音書の精神にいっそう心を傾けるだろう。福音書では、教義は単純で倫理は崇高だし、宗教的な儀式はあまり書かれてはおらず、愛の行為が多く書かれているからだ。彼らになすべきことを教えるまえに、わたしはそれを自分で実行するようにいつも努めるだろう。それは、わたしが彼らにむかっていうことは、すべてわたし自身信じていることだということを彼らによく知ってもらうためである。
(略)
わたしは彼らすべてが同じように愛しあい、たがいに兄弟と思い、すべての宗教を尊重し、それぞれ、自分の宗教を信じて平和に暮らすようにしむけるだろう。わたしはだれかある人に、その人の生まれながら信じている宗教を捨てるようにすすめることは、悪事を行なうようにすすめることであり、したがって、自分でも悪を行なうことになるとわたしは思う。
(略)
われわれがいま置かれている不安な状態では、自分が生まれながら信じている宗教以外の宗教を信ずることは、許しがたい僭越であり、自分の信ずる宗教を誠実に実践しないのは一種の欺瞞であることは、あなたにもわかるだろう。もしわれわれが迷いだしたなら、われわれは至高の審判者の法廷で大きな弁解のことばを自ら失うことになる。神は、ひとがあえて自ら選んだ誤りよりも、むしろ人がそのなかで育てられてきた誤りのほうを容赦するものではなかろうか。
(略)
その上に、どんな心がまえをあなたがきめたとしても、宗教の真の義務は、人間の制度から独立したものであることをよく心得ていてほしい。また、正しい心こそ神の真の神殿であること、どんな国、どんな宗派においても、なにものにもまして神を愛し、隣人を自分のように愛することが律法の大綱であること、道徳の義務を免除するような宗教は一つもないこと、真に肝要なことは、そういう義務だけであること、内面的な礼拝がそれらの義務の第一のものであること、信仰がなくては、どんな徳行もありえないこと、これらのことを忘れないでいてもらいたいものだ。
出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社) 今回の終わりに
私の詩「祈り(4)」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。
次回も、ルソーの『エミール』のゆたかな宇宙を感じとっていきます。
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