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『墨子』(六)非攻。あさましいことだ。

 中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えてきました。

 今回は最終回、さらに「非攻」の言葉を感じとります。

 墨子の弟子たちが、墨子の行動や言葉をまとめた「耕柱篇」と「魯問篇」から、四つの章を選び出しました。それぞれに私が感じ考えさせられた想いを添えます。

<一つ目の説話>
 ここで子夏の門人たちの言葉は、まるでこの島国の好戦的な為政者、政治屋の熱弁のように感じます。
「犬や豚でもやはり闘争はある。感情のそなわったりっぱな人間がどうして戦わないことがありましょう」
 返した墨子の言葉は、私の想い、そのものです。あさましい。人間をやめたのか。たとえにつかわれて犬や豚がかわいそうだ。かれらは無駄な、むやみな殺傷はしない。あさましい、この星の最下等生物だと知れ。

<二つ目の説話>
 墨子は、「大国が小国を攻めるのは」、子どもの遊びと変わらないと見抜きます。攻めるものも、攻められるものも、耕作もできず、機織りもできず、有益な生産はなにもできず、疲れきるだけ。この話もたとえられた「子どもの遊び」が可愛そう、遊びはとても有益で子どもを育みますが、戦争は殺し、破壊するだけです。そのような選択をしてしまえるような為政者は無能であり、社会と人間の破壊者でしかありません。

<三つ目の説話>
 侵略についての、至言です。そんな愚かなことを行なえる国家の為政者は「全く盗癖があるのです。」
有害です。
 これは、墨子が戦国時代の大国の君子に、戦争、小国への侵攻を思いとどませるために行なった対話のひとつです。私は政治的な事柄を好む人間ではありませんが、彼の行為を尊敬します。

<四つ目の説話>
 最後の説話も、他国に戦争を仕掛けようとする大国の王との問答です。
 墨子はずばりと問いかけます・
「他国を兼併し軍隊を覆滅し人民を殺害した場合には、誰がその不祥の報いを受けるでしょうか」
この王は賢明でした。「自分がその不祥を受ける、と。」答えうるだけの謙虚さを知性の片隅に残していて、その愚かさに気づけたからです。

 大切なのは、好戦的な、党利党略で他のことを考えられない愚かな為政者を、選ばないこと。
 たとえ、多くの人が守る意志もない公約や言動に惑わされて選んでしまう過失をおかしても、ここでの墨子のように、その非を正すのが、言論する意志だと私は思います。

 秘密保護法で戦前の言論統制への回帰をごりおしする集団、為政者、ともに住み、生きている、多様な、様々な、感じ方、声に、耳を傾ける能力も考えさえない集団、為政者は、市民として生活を選んでゆく個々の自由、とても基本的な人権すら守るのではなく、「国家のための、公けのための民」という偽りの大義の名で制限していくことばかり考えています。 
 選ばないこと、正すこと、あたりまえの市民生活の日常をこそ大切に良くしていこうとする意志を伝えあいたいと願います。
 
 二千数百年前の墨子の言葉は、単純、率直で、人間を、人間が社会で生きる真実を捉えているからこそ、今も、これからも、愛しあってこそ、人間はゆたかに生きていけるということを、教えてくれます。 

● 以下は、出典からの原文引用です。

■耕柱篇から。
子夏(しか:孔子の門人)の門人たちが墨子先生に質問して、「教養を積んだ人々にも腕力の争いはありますか」といった。墨子先生は「教養を積んだ人々には腕力の争いということはない」とこたえられた。すると、子夏の門人たちは、「犬や豚でもやはり闘争はある。感情のそなわったりっぱな人間がどうして戦わないことがありましょう」といった。墨子先生はいわれた。「なんとあさましいことだ。君たちは口では湯王や文王といった聖人のことをいいながら、実践については犬や豚を譬(たと)えに持ち出すのか。なんとあさましいことだ」

出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

■耕柱篇から。
<解釈> 子墨子が魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)に言われた。大国が小国を攻めるのは、たとえば子供が馬となる《子供の馬遊び。子供が互いに馬になって遊ぶこと》ようなものだ。子供が馬となるのは、自分の足を疲らす。今、大国が小国を攻めるのは、攻められるものは、農夫は耕作ができず、夫人は機織りができず、守ることに専念する。人を攻めるものもまた、農夫は耕作ができず、夫人は機織りができず、攻めることに専念する。
だから大国が小国を攻めるのは、たとえば子供が馬となるようなものだ、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

■耕柱篇から。
<解釈> 子墨子が魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)に言われた。いまここに一人があり、羊・牛・犬・豚などの美食を、その料理人が上衣を脱いで調理し、食べきれないほどある。ところが、人が餅を作るのをみると、驚きの目でそれを盗み、自分に与えよ、と言ったとします。いったいこの人は、美食が不足しているのでしょうか。それとも盗癖があるのでしょうか、と。魯陽の文君は言った、盗癖があるのです、と。子墨子が言われた、楚国はその領内の土地は、荒蕪(こうぶ)した地が開墾しきれないほど広く、空地が数千も多くて入居しきれないほどです。ところが、宋国や鄭国(ていこく)の空邑(かんゆう)を見ると、驚きの目でそれを盗みます。これとあれとで相違がありますか、と。魯陽の文君が言った、同様です、全く盗癖があるのです、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

■魯問篇から。
<解釈> 子墨子が斉(せい)の大王(たいおう)にまみえて言われた。今ここに刀があるとして、これを人の頭にためして一刀で切り落としたとします。この刀を鋭利と言えますか、と。大王が言われた、鋭利である、と。子墨子が言われた、刀は鋭利です、しかし不祥の報いを受けるのは誰でしょうか、と。大王が言われた、刀は鋭利の名を受けるが、刀を執った者が不祥の報いを受けるだろう、と。子墨子が言われた、他国を兼併し軍隊を覆滅し人民を殺害した場合には、誰がその不祥の報いを受けるでしょうか、と。大王は俯仰(ふぎょう)し思案して言われた、自分がその不祥を受ける、と。

出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

 最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

   詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から。
         星の王女さま。『続・絵のない絵本』」


   (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

 戦争がもたらす悪があり、原発がもたらす悪があります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。

 次回は、ルソーの『新エロイーズ』をめぐる詩想です。


 ☆ お知らせ ☆

 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
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    詩集 こころうた こころ絵ほん

 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画  


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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