敬愛する歌人、
式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、
赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
今回も前回に続き、論文
「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。 和歌の後にある作品番号は
『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。
◎出典からの引用1(三の続き)
式子内親王は、「―行く」という表現をしばしば用いる。右の歌(前回引用)のほかに、
のこり行く有明の月のもるかげにほのぼのおつるはがくれのはな 17
<のこりゆく ありあけのつきの もるかげに ほのぼのおつる はがくれのはな>
ながむれば月はたえゆく庭の面にはつかにのこる蛍ばかりぞ 28
<ながむれば つきはたえゆく にわのもに はつかにのこる ほたるばかりぞ>
槇のやにしぐれはすぎて行くものをふりもやまぬは木のは成るらん 58
<まきのやに しぐれはすぎて ゆくものを ふりもやまぬは このはなるらん>
くれて行く春の名残をながむればかすみのおくに有明の月 118
<くれてゆく はるのなごりを ながむれば かすみのおくに ありあけのつき>
「のこり行く」「たえゆく」「すぎて行く」「くれて行く」など、動作や作用などが引き続いて進行する意を表わし、これも時間概念を含む表現と言ってよかろう。眺める間も時間はどんどん侵入し、存在を否定なしにあらわにし、どこへともなく過ぎてゆく。その行方を追う視線が止まるものは、ほのぼのと散る葉隠の花であり、わずかに残る蛍である。時間への視線も、空間の場合と同じように、視線を住まわせるささやかな片隅を求めてやまないのである。(四は略)。
(出典引用1終わり)
☆「―ゆく」という表現 赤羽淑は、式子内親王がしばしば用いた「―行(ゆ)く」という表現を感じとります。「どこへともなく過ぎてゆく。その行方を追う」「時間への視線も、空間の場合と同じように、視線を住まわせるささやかな片隅を求めてやまない。」その片隅は、葉隠れの花、蛍、木の葉、月、かすんだ、あわく、はかなく、繊細な感受性のふるえる、美しい世界です。
私もひとりの詩人として「~ゆく」という言葉を好みます。ひらがなの「ゆ」の形、曲線の柔らかさが美しいこと、音の響き「YU」もやわらかく繊細なこと、「yUkU」母音Uウ音の重なり、連なりが美しいこと、さらに、進んで「行く」という意味と同時に、死んで「逝く」、消えてゆく、と言う意味が、はかなげくまとわれている、からです。
式子内親王が、さまざまな言葉につなげ、「のこり行く」「たえゆく」「すぎて行く」「くれて行く」と詠んだときにも、これらのことを感じて使っていたと私は思います。内親王の「―ゆく」には、「どこへともなく過ぎてゆく」、「消えて逝く」という響きが聴こえます。そのように感じるのは私だけでしょうか?
◎出典からの引用2 また式子内親王は「行くへも知らぬ」を好んで用いる。
うき雲の風にまかする大空の行くへもしらぬはてぞ悲しき 98
<うきぐもの かぜにまかする おおぞらの ゆくえもしらぬ はてぞかなしき>
匂ひをば衣でとめつ梅の花行くへもしらぬ春風の声 108
<においをば ころもでとめつ うめのはな ゆくえもしらぬ はるかぜのこえ>
ながめつる遠の雲井もやよいかに行くへもしらぬ五月雨のそら 128
<ながめつる おちのくもいも やよいかに ゆくえもしらぬ さみだれのそら>
ながむればわが心さへほどもなく行くへもしらぬ月のかげかな 151
<ながむれば わがこころさえ ほどもなく ゆくえもしらぬ つきのかげかな>
しるべせよ跡なき波にこぐ船の行くへもしらぬ八重のしほ風 272(新古今・恋一 一〇七四)
<しるべせよ あとなきなみに こぐふねの ゆくえもしらぬ やえのしおかぜ>
秋はきぬ行くへもしらぬ歎きかなたのめし事は木のはふりつつ 344(続後撰・恋四 九一七)
<あきはきぬ ゆくへもしらぬ なげきかな たのめしことは このはふりつつ>
「行くへもしらぬ」のは、「浮雲」「春風」「五月雨の空」「八重のしほ風」などであり、「歎き」である。大自然の行方は何処へゆくのかわからないが、一方ではその運行に身を任せたいと願う。式子内親王の内向性と外向性の二律背反についてはすでに述べたが、忍ぶ姿と任せる姿の両方がその歌にはみられる。内密性の極限まで凝集してみるが、今度はそれを限りなく解放したいと志向する。過ぎゆくものに身を任せ、どこまでも行かせたいと希求する反面で行方もしれないということに不安と悲しみを感ぜずにはいられない。かの女はまた、
日にちたび心は谷に投げはててあるにもあらずすぐる我が身は 93
<ひにちたび こころはたにに なげはてて あるにもあらず すぐるわがみは>
とも歌うのである。(出典引用2終わり)
☆「行くへも知らぬ」 赤羽淑は続けて、内親王が好んで用いた「行くへも知らぬ」、この言葉が込められた歌を感じとります。内親王が強い愛着を抱いていた言葉、内親王の心、想いを伝え響かせてくれる言葉、と言い換えてよいと思います。それだけに、ここにあげられた歌はどれも、内親王の絶唱、強く心に響く、痛く美しい悲歌です。
赤羽淑が鋭敏に感じとっている、「過ぎゆくものに身を任せ、どこまでも行かせたいと希求する反面で行方もしれないということに不安と悲しみを感ぜずにはいられない。」、その想いを、さまざま詩想、、「浮雲」「春風」「五月雨の空」「八重のしほ風」「歎き」などに託し歌うことが、内親王が生きること、彼女の生き様だったのだと、心打たれます。
赤羽淑が感じとった「忍ぶ姿と任せる姿の両方がその歌にはみられる。内密性の極限まで凝集してみるが、今度はそれを限りなく解放したいと志向する」、この矛盾と葛藤の強さからこそ、「日にちたび」の歌の不安と嘆きの谷の深さからこそ、歌が悲しく美しく、あふれだした、ほとばしりでたのだと、私も思います。
出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。
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