Entries

詩人・常山満と詩誌「ジュラ」(三)過去、現在、未来の詩人も。

 抒情詩人・常山満(つねやま・みつる、1947年~2012年)が創刊、発行した詩誌「ジュラ」に彼が情熱を込めて書き記した詩論、詩への想いを読み返して、私の共感と詩想をこだまさせています。その最終回です。

 今回は詩人・常山満が、詩誌「ジュラ」の第2号に記した「御意見に答えて」です。彼が創刊号で掲げた詩想に対する反響、意見に対して、踏み込んで彼の詩観を伝えようとした言葉です。
 まず出典から彼の言葉を引用し読みとり、呼び覚まされた私の言葉を続けます。

● 以下、出典からの引用です。

 御意見に答えて

(略)
 今もなお我々を感動させてくれる過去の詩人達の作品には皆それぞれ異なった生涯、異なった作品でありながら一つの共通点が見られます。それは人間が人間である限り、過去も現在も未来もない、生きざまの相違もない、永劫に共通して持ち合わせているところの、人間の魂の本質する心情をその作品に内蔵しているということです。この点は「詩の存在価値」でふれましたが、このことを考える時、人間の心には何らの進歩もありません。石器時代の人間も我々も千年後の未来人も全く同一であります。若し過去、現在、未来の人間の魂の本質する心情に変化が生じるとするなら、文学などなんになりましょうか?芸術など何の価値があるでしょうか?我々がアルタミラ洞窟の壁画に感動し、ベートーベンに心酔し朔太郎に共鳴するのは何故でしょうか?してみれば、過去、現在、未来の詩人も、その本質する魂は不変永劫であると言わねばなりません。故に全ての詩人のスタート地点もまた、我々も賢治もボードレールもヴェルレーヌも白秋も全く同一線上に並んでいるわけであります。そして全ての詩人の目指すゴールはただ一点です。「美の核心」です。一人の詩人のみならずあらゆる芸術家達の目指す極点です。それは結果として、いかに多くの観照者を感動させ得るかと言うことになります。
(略)
 純粋詩を端的に言えば朔太郎の言葉に尽きるのですが、補足すれば、詩人の感情を詩として誕生させる以上、それには感覚的な「美」が具備されていなければならないと言うことであります。ぼくがすぐれた生活詩やその他の純粋詩以外の詩をそれなりに評価しながら、なおなにか物足りなく不満を感じているのはこの点であります。人間にたとえるなら、これらの詩は皮膚を持っていないのである。どんな美人でも皮膚を剥ぎ取ったらただの化物である。(略)いつも世にもある流行の(実は常に脇役で時代遅れの)“現代詩”には殊にその傾向があると思うのです。この人間に於ける皮膚こそ詩に於ける「感覚上の美」であるのです。
(略)
   (一九八六年一〇月「ジュラ」第2号より) 
● 出典からの引用終わり。

 ここに書き記された常山満の言葉は、文学、詩歌の本質を照らし出していて、私は深く共感します。
彼は語ります、
 「今もなお我々を感動させてくれる過去の詩人達の作品には(略)一つの共通点が見られます」

 それは何か?
 「それは人間が人間である限り、過去も現在も未来もない、生きざまの相違もない、永劫に共通して持ち合わせているところの、人間の魂の本質する心情をその作品に内蔵しているということ」

 その通りだと思います。私が文学、詩を心から好きなのはだからだと。
言い換えると、今、文学、詩と向き合うことで、過去にも、未来にも、生きることができるといえます。これが文学の豊かさです。
 
 19世紀後半からの科学技術の急速な発達、進化論が受容されてきたこと、マルクス史観もそうですが、人間の一般的な思考形式にも影響を与え、多くの人が「ほとんどすべてのものは進歩する、進歩こそ優れている」という価値観に捉えられました。
 詩人と自認する人たちのなかにさえ、人間は進歩し、心は進化し、詩は進歩していると、錯覚が拡がりました。
 けれど私は常山満の次の言葉にこそ、囚われなく人間をみつめる眼差しがあると思います。
 
 「人間の心には何らの進歩もありません。石器時代の人間も我々も千年後の未来人も全く同一であります。」
 「我々がアルタミラ洞窟の壁画に感動し、ベートーベンに心酔し朔太郎に共鳴するのは何故でしょうか?」
 「過去、現在、未来の詩人も、その本質する魂は不変永劫であると言わねばなりません。」

 彼のこの言葉は、そのまま私の言葉です。詩、芸術の本質は、不変永劫な、感動する人間の魂です。

 「全ての詩人の目指すゴールは(略)「美の核心」です。一人の詩人のみならずあらゆる芸術家達の目指す極点です。それは結果として、いかに多くの観照者を感動させ得るかと言うことになります。」

 常山満は続けて語ります。不変永劫な、感動を、人間の本質的な魂を、呼び覚ましてくれるものは何か?
そのような文学、詩、芸術に必ずあるものは何か?

 「詩人の感情を詩として誕生させる以上、それには感覚的な「美」が具備されていなければならない」

 感覚的な「美」です。人間が感じとることができる、感じとりたいと願わずにはいられない、「美」です。
 だから、人間が生きている限り、芸術、文学、詩が絶えることはないと、私は思います。

 常山満は亡くなりましたが、彼はそのことを知っていました。彼はジュラ期の風を感じる詩人でした。彼の心に生まれた感動、詩が、よみがえる抒情の風にのり、未来に息づくことを私は願いやみません。

● 私のホームページで詩人・常山満の詩を三篇紹介させて頂きました。

  詩「ジュラの風 ( 時折ぼくは― )」「ジュラの風 ( 長い白壁の― )」「明日の為に」
                               (クリックでお読み頂けます)

出典:『新潟魚沼の抒情詩人 常山満』(編者・寺井青、2014年、喜怒哀楽書房)


 ☆ お知らせ ☆

 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日、イーフェニックスから発売しました。
(A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
☆ 全国の書店でご注文頂けます(書店のネット注文でも扱われています)。
☆ Amazonでのネット注文がこちらからできます。
    詩集 こころうた こころ絵ほん

 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画


関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/760-507483ac

トラックバック

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事