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『詩学序説』新田博衛(八)比喩と詩と神話。光を世界の一点に。

 新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記してきました。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞りました。

 最終の今回は、比喩と詩と神話についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
 比喩のこのような性質は、言語を“神話”の領域に近づけるであろう。
 比喩を狭い意味にとれば、それは一つの思考内容を、それと何らかの点で似通った物の名前で意識的に表示することを指すであろうが、この“翻訳”、ないし置換の発生因を究めようとすると、われわれは、おのずから、神話的な思考や感情に導かれるのである。
 いかに原初的な言語表現といえども、一定の認識的・感情的経験を一定の音声に、いいかえれば、経験とは異質の媒体に、変質することを要求する。
これとまったく同じように、いかに単純な神話形式といえども、一定の印象を日常的・世俗的領域から“聖”の領域へ高める変形作用がなければ成立しない。
 神話における俗から聖への転換、言語における経験から音声への転換は、いずれも、比喩的翻訳に似た構造を示し、しかも、ともに、たんなるカテゴリー間の移行ではなく、カテゴリーそのものの創造である点において、「根源的比喩」(原語略)とも呼ばれるべきものである。
 言語も、神話も、それぞれの全体が、一箇の巨大な比喩なのである。   ●出典の引用終わり。

◎著者は、詩において「新しい世界解釈」を創りあげることを可能とする「比喩」の源を探ろうとします。そして、「比喩」がもつ、“翻訳”すること、置換することの発生の原因を究めようとするとき、私たちは「神話的な思考や感情に導かれる」と述べます。
 なぜなら「言語における経験から音声への転換」と「神話における俗から聖への転換」は、「いずれも、比喩的翻訳に似た構造を示し」ているからだと。どちらの転換も、「カテゴリーそのものの創造」であると。
そして、とても印象深く心に響き世界観が拡がる言葉で要約します。
 「言語も、神話も、それぞれの全体が、一箇の巨大な比喩なのである」と。この言葉で、なぜ、比喩を通して、言語が“神話”の領域に近づくのが、私にも理解できます。
 どちらも、比喩による、創造なのだと。著者はさらに省察を深めていきます。

●以下は、出典からの引用です。
 神話と言語とに共通の比喩的原理は、(略)呪術において、他人のつめ、髪、映像などの部分を手に入れることが、ただちにその人間の全体を支配することになるのと同じように、部分と全体との置換が、比喩的修辞の主要なタイプのひとつなのである。(略)

 いま、二つの異なった感覚体験がそれらの内的意味として同じ種類の“エッセンス”を生ぜしめ、このエッセンスがそれら二つの感覚体験に意味を“与えて”いるとすれば、ここにこそ、言語の確立しうるあらゆる結合作用の中で最初の、そして最も堅固なものがある、と言わねばならない。けだし、(略)同じ名で呼ばれる幾つかの物は、何によらず、絶対的に同じものに見えるからである。
 語によって固定された局面の類似性は、問題になっている諸知覚のあいだの異質性をしだいに覆い隠す原因として働き、ついには、それを完全に消滅させてしまう。(略)直接的知覚や論理的分類の立場からは別々の本体も、言語においては同じものとして扱われてもよく、その結果、それらの中の一つについて言われたことは、すべて、他の物にも移されてよいのである。   
 比喩は、たんなる修辞上の技巧なのではなく、言語そのものの内に根源的に含まれている能力のおのずからなる発露であり、このようなものとして、それは、詩という自己矛盾的な言語表現を可能にするのである。(略)●出典の引用終わり。

◎著者がここで挙げる「呪術」の例示は、概念的な考察で何を伝えようとしているのかを、印象深く感じとらせてくれます。
 呪術というものにとって、「他人のつめ、髪、映像などの部分を手に入れることが、ただちにその人間の全体を支配することになる」、この感覚は誰もが持っているので、 「部分と全体との置換」という概念についてのこの説明はわかりやすいと思います。
 それはどうしてなのかを、著者は次のように説明します。「言語の確立しうる結合作用」として、「同じ名で呼ばれる幾つかの物は、何によらず、絶対的に同じものに見える」こと、「直接的知覚や論理的分類の立場からは別々の本体も、言語においては同じものとして扱われてもよ」いこと。
 だからこそ、言語において「部分と全体との置換」が成り立つ、「それらの中の一つについて言われたことは、すべて、他の物にも移されてよいのである。」と。このように「呪術」に似た比喩の能力は「言語そのものの内に根源的に含まれている能力のおのずからなる発露」であり、これこそが、「詩という自己矛盾的な言語表現を可能に」している、と。
 「言語も、神話も、それぞれの全体が、一箇の巨大な比喩」なのであり、だからこそ、詩もまた比喩を紡ぎ創り出される「新しい世界解釈」「新しい神話」なのだと。
 一人の詩の書き手として、これらの叙述は、詩作という創作行為の核心、なぜ、詩の言葉で作品を紡ぐのか、という問いに対する答えとなっていると、私は思います。
 続く以下の著者の言葉は、情熱的で、詩を愛する渾身の想いが輝きだしていて、私の心に深く木魂します。心打たれる、素晴らしい、美しい言葉です。

●以下は、出典からの引用です。
 詩は、神話という根源へ向っての言語の自己還帰をあらわしている。
それが、個々の語に日常の水準をはるかに超えた実体性と白熱の輝きとを与え、その都度、あたかも最終的な世界解釈のごとく響くのはこのためである。
それは、科学的論理に連なる拡散光によって世界を照らすのではなく、あらん限りの光を世界の一点に集中する。
それは、その言葉のエネルギーによって、たんに死すべき人間の心を動かすのみならず、さらに、神々をも動かして、かれらを呼び出す力を持つであろう。     ●出典の引用終わり。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 ☆ お知らせ ☆

 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日、イーフェニックスから発売しました。
(A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
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    詩集 こころうた こころ絵ほん

 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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