『源氏物語』に私が惹かれるのは、匂やかな女性たちの息づかいがたゆたっているからですが、
その世界に咲いている草花や草木に触れられその呼気に包まれ癒される思いになるのも、繰り返しその森を訪れたくなる理由のひとつだと感じています。
紫式部の原文の語り口には、眺めやるまなざしの掌と指で、草花や草木を愛で撫でているうごきを感じます。草花や草木がとても好きと、紫式部の声が響いています。
物語に息づく花と女性のなよやかな結びつきは美しく、
藤壺の宮の藤、紫の上の紫、葵の上の葵は、花の名だけでその女性の容姿とこころまでふくよかにふくらませ鮮明な印象として伝えてくれます。まるで女性は花、花は女性と、囁き揺らめいているようです。
物語の全体を濃密に染め上げている色合いは、紫だと感じます。紫の上と藤壺の宮のいのちの存在感が染み出している気がします。物語を読み継いだ人々が作者を、紫式部といつしか呼んだのも、とても自然だと感じます。
宇治十帖はとても悲しく美しいけれどあまりにはかないので、その世界に生きる姫君たち、
大君、中の君、浮舟は、澄んだ無色の揺らめき、光り消える水の花のように感じます。
平安貴族が
花鳥風月ばかり題材とし、類想の題詠を繰り返して和歌は堕していったという批判は一面では当たっているかもしれませんが、
「幻」の巻の紫式部の次のような花や草木についての細やかな言葉に包まれると、草花や草木の微かな変化やうごきをも感じとれる感性を学びとりたいと私は思います。
このような繊細な感性が詠みこまれてきた和歌についても、鈍く衰えた現代人のさかしらさで時代を遡って今より劣っていたかのように評するのは虚しいと思います。
「母ののたまひしかば」とて、対(たい)の御前(おまえ)の紅梅とりわけて後見(うしろみ)ありきたまふを、いとあはれと見たてまつりたまふ。二月(きさらぎ)になれば、花の木どもの盛りになるも、まだしきも、梢(こずゑ)をかしう霞(かす)みわたれるに、かの御形見の紅梅に鶯(うぐひす)のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でて御覧ず。(略)
山吹などの心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。
外(ほか)の花は、一重(ひとへ)散りて、八重(やへ)咲く花桜(はなざくら)盛り過ぎて、樺桜(かばざくら)は開け、藤はおくれて色づきなどこそはすめるを、そのおそくとき花の心をよく分きて、いろいろを尽くして植ゑおきたなひしかば、時を忘れずにほひ満ちたるに、若宮、「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。(略)。[訳]
「祖母様(紫の上)が仰せでしたから」と言って、対のお庭先の紅梅を特にたいせつに思って世話してまわられるのを、院は、まことにいじらしく拝してしらっしゃる。二月になると、梅の木々の花盛りなのも、まだ蕾のままなのも、梢が風情(ふぜい)をたたえて一帯に霞んでいるなかで、紫の上のお形見の紅梅に鶯(うぐいす)が楽しそうに鳴きたてるので、院はお部屋の外へ出てそれをご覧になる。(略)
山吹の花などがいかにも心地よさそうに咲き乱れているにつけても、つい涙の露をうかべながらごらんにならずにはいらっしゃれない。
よそでは、一重の桜が散って、八重に咲く花桜の盛りも過ぎ、樺桜は咲き始めて、藤はそれにおくれて色づいてゆくようだが、紫の上が遅咲き早咲きそれぞれの花の性質をよく心得て、さまざまの花の木をあるかぎり植えておおきになったので、それらが時を忘れず咲き満ちているのを、若宮が「わたしの桜がきれいに咲きましたよ。なんとかしていつまでも散らさずにおきたいな。(略)。
出典:
『日本の古典を読む⑩ 源氏物語 下』(校訂・訳者:阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男。2008年、小学館)。 生きている世界・生活を作者、語り手がどこまで感じとれるか、感じとれたものをどれだけ言葉として表し伝えうるかが、文学にとっては何より大切なことです。『源氏物語』に咲いているのは、貴族の邸宅の庭や僧院をおおう木、近隣の山の草木がほとんどで、極めて限られた枠の中の風景です。でも閉じられた景色に咲く草花や草木の日々の変化、訪れる鶯や風と光の移ろいを見詰めていたまなざしと思いはとても深いものでした。
このことは、花の話から少し反れますが、「物語が描く世界の狭さは、物語が伝えうる拡がりと深さの制約にはならない」ということと繋がっていると私は思います。
『源氏物語』が描いているのは極めて狭く限られた宮中の貴族たちとその周辺の社会だけです。ですがそれにも関わらず、紫式部がその狭い世界に生きる人の思い、感情、心を、人と人の、男女の、交わりのうちに執拗に深く掘り下げたからこそ、この物語は、作者が描けた社会の狭い枠組みに阻まれることなく時代を越え、現代社会にいる私の心にさえ共感を呼び起こしてくれるのだと、私は思います。
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