ひとりの詩人として私なりの感性で、
『源氏物語』を「蛍」の巻の物語論を通して、読み取り感じ取ろうとしました。
汲み尽くせないほど豊かなこの物語を、
本居宣長(もとおりのりなが)は二百数十年前にこよなく愛しその本質に迫りました。彼の著述を通して、さらにこの美しい絵巻についての思いを深めたいと思います。
彼は67歳で
『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』としてこの物語論を集大成しまとめました。ただその本質論の部分は、34歳でまとめた
『紫文要領(しぶんようりょう)』で既に
「物のあはれ」を核心概念として確立していました。
まず初めに、
『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』から、
「物のあはれ」について宣長が要約した箇所を以下に引用します。
◎訳文「物のあわれを知るとは何か。「あはれ」というのはもと、見るもの聞くもの触れることに心の感じて出る嘆息(なげき)の声で、今の世の言葉にも「あゝ」といい「はれ」というのがそれである。たとえば月や花を見て、ああ見事な花だ、はれよい月かなといって感心する。「あはれ」というのは、この「あゝ」と「はれ」の重なったもので、漢文に嗚呼とある文字を「あ ゝ」と読むのもこれである。」
「何事にしろ感ずべきことに出会って感ずべき心を知って感ずるのを、「物のあはれを知る」というのであり、当然感ずべきことにふれても 心動かず、感ずることのないのを「物のあはれを知らず」といい、また心なき人とは称するのである。」
出典:
『日本の名著21 本居宣長』(西郷信綱 訳。中央公論社)◎原文「物のあはれをしるといふ事、まづすべてあはれといふはもと、見るものきく物ふるゝ事に、心の感じて出る、歎息の聲にて、今の俗言に も、あゝといひ、はれといふ是也、たとへば月花を見て感じて、あゝ見ごとな花ぢや、はれよい月かなな どいふ、あはれといふは、このあ ゝとはれとの重なりたる物にて、文に嗚呼などあるもじを、あゝとよむもこれ也」
「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべきこゝろをしりて、感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、かならず感ずべき事にふれても、心うごかず、感ずることなきを、物のあはれしらずといひ、心なき人とはいふ也」
出典:
『本居宣長全集第4巻』(大野晋、大久保正 編・校訂。筑摩書房) 私は、世界の古代からの詩と詩論を旅していて
本居宣長の「物のあはれ」の考えに出会った時のことを思い出します。初めて触れたとき洗われる思いがし、とても強く新鮮に共感しました。彼のこの言葉は、とてもまっとうな、当たり前だからこそ何よりも大切なことがら、誰もがいつも心の奥底に感じながら言葉にできなかったことを、初めて捉えて言い切ったすごさがあると今も思います。物語と詩歌という形の違いが現れる前の、その源にある文学を思うとき、その本質を捉えていると思います。その源は文学は生きること、生きることは文学、と結ばれていて切り離せないところだと私は思います。
文学は、「ああ」と深く感じる心。深く感じる心から生まれ、伝え、受け取りまた深く「ああ」と感じること。
詩人の中原中也も文学、生きることは「もののあはれ」そのものだと捉えていました
(中原中也の「ゆたりゆたり」)。 本居宣長は、彼が掬い上げたこの言葉により、見出した視野から、豊かな『源氏物語』の諸相と
紫式部の本来の思いを 読み取って伝えてくれます。
次回から数回、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』に形を整えられる前の、執拗に「物のあはれ」を考えた原初の姿をとどめた
『紫文要領(しぶんようりょう)』を中心に、私が感応した本居宣長の散らばり光る言葉を引き、思い巡らし感じ取れたことを記していきます。
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