Entries

本居宣長と源氏物語

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取りたいと思います。
引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 今回は、物語は物の哀れをしらする、とする宣長の言葉に感じ思うことを記します。
 本居宣長はこの著書で、物語の意味、『源氏物語』紫式部がこめた真意を、「物の哀れをしらする」ことにあると見い出し、彼以前の注釈の主流だった勧善懲悪の勧めでもなく、儒仏への誘いでもないことを伝えようとしました。私は彼がこの叙述で、文学といえるすべての表現、物語、小説、詩歌の本質を捉えていると思います。文学は実利を求め与え受け取れるものではなく、生きることそのもの、こころそのもの、そのうごきを、伝え感じるものだと。
 まず、この著書で宣長が自らに言い聞かせるように繰り返しているその言葉を、重複はありますが抜き出し、以下に記します。

◎原文
「物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也。」(P65)
「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有りさま人の心ばへをしりて、物の哀れをしる也。とかく物語をみるは、物の哀れをしるといふが第一也。物の哀れをしる事は、物の心をしるよりいで、物の心をしるは、世の有りさまをしり、人の情に通ずるよりいづる也。」(P33-P34)
「人に語りたりとて、我にも人にも何の益(やく)もなく、心のうちにこめたりとて、何のあしき事もあるまじけれども、これはめづらしと思ひ、是れはおそろしと思ひ、かなしと思ひをかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心にばかり思ふてはやみがたき物にて、必ず人々に語り聞かせまほしき物也。世にあらゆる見る物聞く物につけて、心のうごきて、これはと思ふ事はみなしかり。詩歌のいでくるもこの所也。
さてその見る物聞く物につけて、心のうごきて、めづらしともあやしとも、おもしろしともおそろしとも、かなしとも哀れ也とも、見たり聞きたりする事の、心にしか思ふてばかりはゐられずして、人に語り聞かする也。語るも物に書くも同じ事也。さて其の見る物聞く物につきて、哀れ也ともかなしとも思ふが、心のうごくなり。その心のうごくが、すなはち物の哀れをしるといふ物なり。されば此の物語、物の哀れをしるより外なし。」(P45-P46)「さてその物事につきて、よき事はよし、あしき事はあしし、かなしき事はかなし、哀れなる事は哀れと思ひて、其のものごとの味をしるを、物の哀れをしるといひ、物の心をしるといひ、事の心をしるといふ。されば此の物語は、それをしらさむためなれば、よきあしき事をつよくいへる也。」(P48)
「大よそ此の物語五十四帖は、物の哀れをしるといふ一言にてつきぬべし。
その物の哀れといふ事の味は、(中略)猶くはしくいはば、世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其のよろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへ知る、是れ事の心を知る也、物の心を知る也、物の哀れを知るなり。(中略)
わきまへ知りて、其の品にしたがひて感ずる所が物の哀れ也。(中略)
めでたき花といふ事をわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが感ずる也。是れ即ち物の哀れ也。」(P95)
「此の物語はまづ世にありとある事につきて、見る所、聞く所、思ふ所、ふるる所の、物のあはれなるすぢを見しり心に感じて、それが心のこめおきがたく思ふよりして、物に書きて心をはらしたる也。すべて心に思ひむすぼほるる事は人にも語り、又物にも書き出づれば、そのむすぼるる所がとけ散ずる物也。さてその紫式部がつねに心に思ひつもりたる物の哀れを、此の物語にことごとく書き出でて、猶見る人に深く感ぜしめむがために何事もつよくいへるなり。物の哀れなる事のかぎりは此の書にもるる事なしとしるべし。されば是れをよむ人の心にげにさもあるべき事と思ふて感ずるが、すなはちよむ人の物の哀れをしる也。さやうに感ぜしめむがために、物の哀れをことさらに深く書きなしたる物也。深く書きなしたる故に人の感じやすくて、物のあはれをしる事やすくして深き也。」(P179)

 本居宣長は、紫式部が『源氏物語』を、物の哀れをしる人をよしとし、物の哀れをしらぬ人をあししとして描いていると、以下のように教えてくれます。人の情を推(お)しはかることができ、心を知り、感じとることができる人をよしとする、紫式部の心のあり方、いのちの捉え方が私はとても好きです。私も何より大切なことと思います。それを伝えようとこの物語を描きあげた紫式部を私は尊敬します。

◎原文
「ただ人情の有りのままを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也。
さてその人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。是れ物の哀れをしるといふ物也。人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也。人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみを見ても何とも思はず、人のうれへを聞きても何とも思はぬもの也。かやうの人をあししとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也。」(P64)
「又人の重きうれへにあひて、いたく悲しむを見聞きて、さこそ悲しからめと推(お)しはかるは、悲しかるべき事を知るゆゑ也。是れ事の心を知る也。その悲しかるべき事の心を知りて、さこそ悲しからむと、わが心にも推しはかりて感ずるが物の哀れ也。その悲しかるべきいはれを知るときは、感ぜじと思ひ消ちても、自然としのびがたき心有りて、いやとも感ぜねばならぬやうになる、是れ人情也。」(P96)

 本居宣長は、紫式部がこのような深いまなざしで、この物語に生きる人物を描きわけていると述べます。哀れをしることは、うわべの見せかけではないという言葉にも私は共感します。
 源氏の君は、栄華を極め過ぎていて私は好きになれませんが、それでも人情にかない、悲しみよろこびを知る意味ではよい人だと読者として感じるのは、作者の力量だと思います。
 まったく対象的な極にいる浮舟、彼女のこころの動きには深い感動と悲しみを覚えずにはいられません。浮舟の心を描いた紫式部の心の深さに打たれます。
 本居宣長の浮舟を思いやる言葉から彼がこまやかな心をしる人だったことを感じて、私は敬愛の念を抱きます。
  
◎原文
「作り物語にもせよ、それはとまれかくまれ、紫式部が心に源氏の君をよしとして書ける也。かくの如く不義淫乱をばうちすててかかはらず、源氏の君をよき人にしたるは、人情にかなひて物の哀れをしる人故也。」(P69)
「大方物の哀れをしればあだあだしきやうに思ふはひが事也。あだなるは返りて物のあはれしらぬが多き也。其の故は前にもいへるごとく、物のあはれを知り顔つくりて、ここもかしこも物の哀れしる事を知らさむとて、なびきやすにあだなるが多き也。是れは実に知る物にはあらず。うはべの情けといふものにて、実は物の哀れしらぬ也。」(P123)
「又さにはあらで、ここもかしこも物の哀れしりてなびくもあり。是れも事によるべけれども、まづはそれは一方の物の哀れしりても一方の哀れをしらぬになる也。されば浮舟の君は、それを思ひみだれて身をいたづらになさんとせし也。薫のかたの哀れをしれば、匂(におう)の宮の哀れをしらぬ也。匂の宮の哀れをしれば薫のあはれをしらぬ也。故に思ひわびたる也。(略)浮舟の君も匂の宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず。これも一身を失ふて両方の物の哀れを全く知る人也。」(P124)

関連記事
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/82-071b53b9

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

最新記事