日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。
前回に続き、『千載和歌集』の撰者、
藤原俊成が
式子内親王に贈った歌論『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』に記された、彼の和歌、詩歌の本質についての想いへの共感を記します。
引用箇所で、彼のあまりに正直な、あからさまな告白は、日本語の詩歌を創る一人の者として、胸に痛く響きます。彼は言い切ってしまいます。和歌は仮名四十七文字を用いて三十一字に詠むことのほかには、決まりごとなんてなんにもないと。このひとには本質を見据えるまなざしがあって、すごいなと思います。
そこで彼が対比しているように、漢詩や(西欧の)定型詩は、誰にでもわかる型、約束事があるので、その型に外れているかいないか、上手く活かしているか、鑑賞、評価しやすい。稚拙が誰にでもわかる。その通りだと、私は思います。このことを、言い換えれば、型にはめさえすればいいのだから、誰にでも作りやすい、と思います。
それに比べて和歌、詩歌は、あまりに型、決まりごとがおおまかすぎて、と俊成は歎きます。「侮らるる」、人に軽んじられると。 けれども、それに付け加えた言葉こそ、俊成の詩魂がこめられていると私は共感します。
和歌は「大空が無限であるように、限りなく、大海の果ても際限もわからないように、果ても極みもわからないもの」、だからこそ、一生をかけるのに値する深い境地があるのだと。
日本の詩歌は、和歌に限らず、古代歌謡から、連歌、俳句、文語定型詩、口語自由詩まで、定型と呼べるほどの型はありません。容易であるようにみえ、残念にも人に軽んじられます。
でも、その型のゆるやかさは、日本語の本来の資質であり、無限の自由と可能性を孕んだ創作空間だと、私は思います。生涯をかけるにあたいすると。
彼の和歌、詩歌に対する想い、詩歌に生きた生涯を貫いていた詩魂に私は励ましを感じます。
●以下は、出典からの引用です。大方、歌の善(よ)し悪(あ)し定むる事は、先にも申したるやうに、言葉を以(も)て申し述べ難し。漢家の詩など申すものは、その躰限りあり、(略)なかなか善し悪しあらはに見えて、流石におして人もえ侮(あなづ)らぬものなり。しかるに、この倭歌(やまとうた)は、ただ仮名の四十七字のうちより出でて、五七五七七の句、三十一字とだに知りぬれば、易(やす)きやうなるによりて、口惜しく人に侮らるる方(かた)の侍るなり。なかなか深く境(さかひ)に入りぬるにこそ、虚(むな)しき空の限りもなく、わたの原波の果(はたて)も究(きわ)めも知らずは覚ゆべき事には侍るべかめれ。
<現代語訳>
大体、歌の道において良い悪いを決めることは、先にも申し上げたように、言葉では説明しにくい。漢家の詩などよ申すものは、その詩の形態に法則があって、(略)すべて法則が定まっているために、かえって良い悪いがはっきりとわかり、それだけに押し切って人も軽視できないものである。ところが、この和歌は、ただ仮名の四十七字のうちで詠んで、五七五七七の五句で、三十一字とさえ知ってしまうと、歌を詠むことが容易であるようにみえるために、残念にも人に軽んじられる点があることである。かえって深い和歌の境地にはいってしまうと、大空が無限であるように、限りなく、大海の果ても際限もわからないように、果ても極みもわからないものと思わなければならないことのようである。
出典:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館) 次回は、『古来風躰抄』の俊成の言葉、最終回です。
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