作家の神谷恵は2002年7月に
小説『家郷』(新風舎)を発表しました。
詩から小説へと表現の器を変えたのはなぜか、私はそうしなければ伝えられないものがあるからだ、と受止めました。また
詩人の魂がどのように
小説の言葉となり生かされていのか、感じ取りたいと思います。
◎縁(えにし) この小説に繰り返し表れる大切な言葉に、
家郷、安心して帰れる家があることがどれほどお年寄りに必要か、という言葉とともに、
縁(えにし)、ふとしたきっかけで生じた命のつながりの不思議な大切さ、があります。
詩集『てがみ』は心に響く切実な一人称の語りかけ、求め訴える、そうせずにはいられない心でした。その言葉は透き通り魂を貫きますが、痛みに満ちています。
小説『家郷』には、縁(えにし)があります。詩集に息づく一人称の叫び悲しむひとは同じ姿で生きていますが、その人と縁でつながる人たちがいます。その人の痛みと悲しみを、自分のことのように思い、分かりたいと傍にいる人たちがいます。ぶつかり衝突しつつ許しあう姿があります。そんな普通の、優しい人たちが傍にいても悲しみや痛みに沈んでしまうことは同じでも、笑顔と笑いがまた必ずあります。さりげない思いやりの一言、優しい一言をかけ合う人たちがいます。この人と人との縁(えにし)を、小説だからこそ伝えられる何げないやりとりのうちに作者は伝えてくれます。
◎強烈な印象、詩を核として 第2章「金色の雪」は、前回紹介させて頂いた
詩集『てがみ』所収の詩「病室の海 霊安室から」がモチーフとなっています。詩の痛切な言葉を強い核としてもちながら、人たちの表情、思い、怒り、笑い、涙を、小説として描きあげたものです。込められた作者の魂は同じ強さを秘めながら、詩でしか伝えられない言葉、小説に創り上げることで始めて伝えられるもの、作者はそのことを知っていて、描ききったのだと、私は思います。
詩「病室の海 霊安室から」の語りかけに込められた悲しみに私は打たれます。
一方この詩をモチーフとした
小説の第2章「金色の雪」を読んで私は感じます。ここに生きているおばあちゃんたちの怒り、嘆き、笑い、涙と会話、人の心を喪失した縁者、見守り心配する医師や看護婦さんのちょっとした思いやり、いたわり、憤りは、読み進む私のすぐ傍で今起こっている、私を取り巻いている、その人たちと喜怒哀楽を共にして読者の私がいると。
強烈な印象、詩を核として創り上げられた小説でしか得られない感動だと私は感じます。
◎シモーヌ・ヴェイユの言葉 この小説には、本筋から少し逸れた挿話が挟み込まれています。登場人物の医師が過去を振り返り亡くなった友人のことを語ります。その友人はシモーヌ・ヴェイユを畏敬し生きざまへのおおきな影響を受けていたと。
神谷恵はシモーヌ・ヴェイユに心酔していると詩集のあとがきに記しています。挿話のかたちでありながら、作者がどうしても書きたい伝えたいメーセージがこの挿話に込められていると私は感じます。
私自身ははシモーヌ・ヴェイユの言葉に触れた時、魂の最も底にあるそれだけは善いことと感じ得るもの、に共感しながら、彼女の言葉のようには「この世では生きられない」、彼女の志向する世界像と「現代の大量物質消費社会はまったく逆の方法に進んでいる」、だからといって「今私が現にいる世界、社会を否定はできない」と痛切に感じました、どうするか、私は俗にまみれて、生きようと決めました。魂の奥底の善いことと感じ得るものだけは決して見失わずにいたい、と願いながら。
作者は心酔し魂を同化したヴェイユの生の言葉をはこの小説に刻みつけます。
そしてその言葉のままに、どこまでも純粋であろうとし聖を希求する魂として生きるために、この俗社会での生き難さを、医師の亡くなったの友人の行動と死、その友人の姉の焼身自殺に、結実させた、昇華させたのではないかと私は感じました。
作者はとてもヴェイユに近い純粋な魂を抱くが故に、この世はとても生き難い、けれど生きる方向を向こうとする意思こそが、この小説なのだと私は感じます。
◎
猫の神(ジン) この小説の第一章にある、神(ジン)と呼ばれた猫と飼い主のパスターとよばれる老人の話が、私はとても好きです。もうだめだ疲れ切った死のうと思ったその日のパスターの夢に、先に死んだ猫の神(ジン)が現れて、次のように話しかけます。
そうしてふと気が付くと、ジンを抱いているつもりが、いつも間にかジンに抱かれて眠っていた。ジンは柔らかなその手でパスターの頭を撫でながら、「もうなにも心配しなくていい。あなたの悔いは家族に伝わりました。充分に」と人間の言葉で言うのだった。 その後の別の箇所で作者は次のように記します、
犬や猫に、まだ言葉さえ発しない赤子に、植物状態になった夫や脳死の妻にさえひとは養い育まれている。 この言葉に、私は詩集『てがみ』の詩人・神谷恵の魂が、この小説全体に貫いていることを感じ、感動します。小説『家郷』に、神谷恵は、生きることには悲しみ、苦しみ、痛みが満ちているけれど、でも人が生きようとする願いの強さ、そのたくましさを信じる気持ちを込めて、伝えたかったのではないか、と私は感じました。
人と人の縁(えにし)が、孤独な思いを見守り包むものとして、傍にあることに気づこうと。
作中人物のコウキを通して次のように呼びかけて。
「ひとりのひとの中にさえそれぞれ醜く、傲慢で、自分勝手で、どうしようもない心があります。正直言うと、ぼくだって本心では人間は嫌いだという部分も持っています。でも、ぼくは家族に、とくに祖父母に精一杯の愛情を注いでもらったせいかも知れませんが、お年寄りたちがたまらなくいとおしくなるときがあるんです。ただそこにいらっしゃる。それだけで、ああ、よく頑張って生きてきたんですね。そう言って抱き締めてあげたくなるときがあります。きっと、皆さんには分かって戴けると思います。お爺さん。今までほんとうに辛かったんですね。たいへんだったんですね。でも、もう大丈夫。心配しないで下さい。こんなに優しい先生や看護婦さんや、お友達がたくさんいらっしゃるじゃないですか。最後に、お爺さんのために歌います。聞いてください」 現在、神谷恵は、闘病生活のなかで、
個人文芸誌『糾(あざな)う』に、新しい書かずにはいられない作品を発表し続けています。それらの作品群が届けてくれるメッセージは別の機会に紹介したいと思います。
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