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頭韻や脚韻『恋愛名歌集』(二)萩原朔太郎

 萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して、日本語の歌の韻律美をより深く聴きとる試みの2回目です。前回は音数律、実数律を考えましたが、今回からより微妙な言葉の音色に耳を澄ませます。

 日本語の韻文のこの特徴について朔太郎は、「解題一般」で次のようにわかりやすく記しています。 「日本語には建築的、対比的の機械韻律が殆んどなく、その点外国語に比し甚だ貧弱であるけれども、一種特別なる柔軟自由の韻律があり、母音、子音の不規則な―と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、 特殊な美しい音律を調べるのである。」

 一般的には、日本語の詩、韻文について、音数律以外の韻律があるとは語られません。歌と散文の違いは、三十一文字かどうか、詩と散文の違いは、語数のリズム(五七調や七五調)がなんとなく感じられるかどうか、くらいにしか考えられていなくて、これだけでは詩が「行分け散文」とけなされても、仕方ないかもしれません。
 そのような常識しかしらなかった私にとって『恋愛名歌集』での日本語には特殊な美しい韻律があるという言葉は、驚きの発見であり深い喜びでした。

 今回は、韻律の中でも感じとりやすく印象が強い「頭韻や脚韻」を中心に、日本語の韻律を考えます。
 外国の詩は「建築的、対比的の機械韻律」、「頭韻や脚韻」の細かい規則に、言葉を選び当てはめて詩が作られます。特に脚韻の繰り返す響き合いには、待っている音が期待通りにやってくる自然な快感を感じてうらやましく、逆に日本語の詩歌に「頭韻や脚韻」がないのを残念に思っていました。
 そんな私に朔太郎は、「外国語に比し甚だ貧弱であるけれども」、日本語の歌には「母音、子音の不規則な―と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻」がある、と教えてくれました。とても新鮮な驚き、無意識に使っていた言葉の再発見でした。見つけた頭韻や脚韻に耳を澄ますと、歌がより美しく心に響いてくれることを知りました。

  たとえば、私は朔太郎の言葉で意識する前から、古今集の紀友則の有名な次の歌は「なんとなくいい響きで好き」でした。
   久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
 朔太郎はその秘密を教えてくれます。「ハ行H音を主調(テーマ)として、各句の拍節毎に頭韻し、かつNO(の)の母韻を韻脚として毎節毎に重韻している」からだと。この歌は美しい「音象詩」だと。
   Hisakata-no Hikari-no-dokeki Haru-no-hini Shizukokoronaku Hana-no-chiruran

朔太郎の言うとおり、「不規則な―と言うよりも非機械的な配列」です。でも詠んでみると、この歌には確かに「頭韻や脚韻」があること、美しく響く音律を奏でていることを、感じとれます。

 この歌と同じように、日本の歌の韻律は、外国の詩のように「建築的、対比的の機械韻律」の決まりごとに当てはめて作られてはいません。「何行何句目と何行何句目、その何文字目と何文字目に同音を置くのが何々形式の詩」といった約束事はありません。「一種特別なる柔軟自由の韻律」です。
 作者自身、決まりごとの枠に音を当てはめているのではなく、言葉の音を聴きとり響きあう音を選びながら、詠んでいるのだと思います。だから押韻しあう音が置かれ響きあう位置は、作者の感性しだいで柔軟にうごき、歌により変ります。 美しい「音象詩」にまで高まっているかどうかは、作者の感性と力量次第の、高度な芸術です。定式化された決まりごとでないから、読みとり、聴きとる側にも、耳と言葉の響きに対する感性がなければ、その良さがわかりません。

 『恋愛名歌集』にある朔太郎の「音象詩」を聴きとる言葉のうち、「頭韻と脚韻」を主としたものも、下記の原文に抜き出しまとめました。私もこれらの美しい言葉の響きを自分の耳で聴きとりたい、感じとれる感性、感動で心を豊かに波うたせたいと願っています。

 次回は、さらに微妙な韻律に耳を澄ませたいと思います。

◎以下は、朔太郎の原文です。

解題一般
 (略)日本語には建築的、対比的の機械韻律が殆んどなく、その点外国語に比し甚だ貧弱であるけれども、一種特別なる柔軟自由の韻律があり、母音、子音の不規則な―と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、 特殊な美しい音律を調べるのである。

  久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
 ハ行H音を主調(テーマ)として、各句の拍節毎に頭韻し、かつNO(の)の母韻を韻脚として毎節毎に重韻している。そのため全体の音楽が朗々として、如何にも長閑(のど)かな春の気分を音象している。(略)音象詩として典型的の者であろう。

  わりもなく寝ても醒めても恋しきか心をいづちやらば忘れむ
(略)「わりもなく寝ても醒めても」と「も」音を重ねて各句の行尾に脚韻し、畳みこむようにして歌っているのが、この場合最も適切に響いている。(略)

  筑波根(つくばね)の嶺(みね)より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
 全体が序みたいな歌で、想としては無意味極まる空虚な歌だが、調律上の押韻は巧みに出来てる。即ち「嶺より落つるみなの川」でMiを重韻すると共に、「つくばね」のTsuを「落つる」び受け重ねてる。このTsuは一首の始まる主調音である故に、四句の「恋ぞつもりて」で対比的に押韻し、以て全体に調和のある佳い音楽を構成している。こういう歌は意味を取らずに、ただ耳だけで聴くべきである。

  名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな
 この歌上三句まで
  Nanishi Owaba Osakayama no Sanekazura
 と母音Aを多く用いてリズミカルに押韻している。下四句に至って第一句Nanishiの主母音Iを受け Hitonishiraredeと転調し、此所に最も優美な音楽を聞かせている。(略)

  これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
(略)如何にも逢坂の関所あたりを。東西の旅客が右往左往して忙しげに行き交う様子が浮んで来る。その表象効果は勿論音律に存するので、「これやこの」という急きこんだ調子に始まり、続いて「行くも」「帰るも」「知るも」「知らぬも」とMo音を幾度も重ねて脚韻し、さらにKoreya Kono yukumo Kaerumo wakaretewaと、子音のKをいくつも響かして畳んでいる。こういう歌は明白に「音象詩」と言うべきであり、内容をさながら韻律に融かして表現したので、韻文の修辞として上乗の名歌と言わねばならぬ。

  滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れて尚聴えけれ 
(略)規則正しい頭韻が押してある。即ち「たきの音」は「たえて」でTaを重韻し、以下「名こそ」「ながれて」「なほ」とNaを各句の拍節部に頭韻している。この形式の代表的の者は、万葉にある「よき人のよしとよく見てうよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ」であるが、こうなると人為的のトリックが目について不愉快である。すべて詩歌の押韻は自然に適い、工夫の跡が見えないようにするほど上手である。(略)
 脚韻律の例としては前掲蝉丸の歌「これやこの」以外に(略)
  あし曳(ひ)きの・山鳥の・尾の・しだり尾の・長々し夜を独りかも寝む  
等その他たくさんある。

  はかなくて過ぎにし方(かた)を数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける
(略)第一句の「はかなくて」を、四五句の「花に」「春ぞ」と対比し、Ha音を三度重韻して歌っているので、如何にも嘆息深く、ゆったりと物憂げに感じられる。(略)

  難波(なには)潟みじかき葦(あし)のふしの間も逢はでこの世をすごしてよとや
 上三句までは序で、短いということの形容。こうした歌は大概調子本位に出来るのだから、想よりも声調の音楽美に注意しなければ無意味である。この上三句までは母音AとIとの対比的な反覆押韻で構成されている。即ち
  Naniwa-gata Mizikaki Ashi-no Fushi-no-mano
 で、下四句以下は主として母音Oを重韻してある。かつ初句Naniwa-gataの主調母音Aと「葦」のA及び四句「あはで」のAとを、三度畳んで対韻にしている。作者は伊勢。

出典:『恋愛名歌集』(1931年・昭和6年、第一書房、1954年、新潮文庫)。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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