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詩と真実。ルクレティウス『事物の本性について』(2)

 ルクレティウスの『事物の本性について―宇宙論』から、詩を考える試みの2回目です。今回は、思想と信仰と詩について思うことを記します。

ルクレティウスはこの本で、真理と確信する思想を読者に教えるために、その思想の根本概念で事物を捉え描きなおし説明します。だからこの本は、宇宙を理性で解読して原子論の正しさを証明しようとする論文ともいえます。
そのことは、たとえば彼の恋愛の捉え方に顕著に現われています。恋愛をその渦中に生きて心で歌うのが詩ですが、彼はそうするのではなく、男女の恋愛心理や行動を外側から理知的に観察します、まるで動物行動学のような記述です。
 宇宙そのものの捉え方についても、現代の科学のような、素粒子物理学や原子核物理学が放射性元素プルトニウムや放射性同位体セシウムを説明するのに通じるものを感じます。人間の理性と理知により宇宙は解き明かせるという科学信望、宇宙と照応する体系を記号と数式で書き表せるという、近現代科学の世界観の源流に彼はいます。彼は数学ではなく彼の時代の言葉を記号とするしかありませんでしたが。だからルクレティウスの情熱は、彼の思想の正しさを主張することに注ぎ込まれています。

この意味で彼の『事物の本性について』は詩の形式を借りて音韻を踏んでも、言葉の本質は、理知で説明し概念を伝えることを目的とした散文だと、私は思います。
私は彼の情熱の強さに打たれます、が、彼の叙述に心の感動、詩は感じません。宗教書との違いもここにあり、この書の言葉に祈りは感じられません。詩と祈りは感動をともなう言葉だからです。

 詩は心と思いの真実を歌うものであり、魂の揺れ動きであり、心の感動を波打たせることで、いつも宗教のそばにいますが、信仰ではありません。信仰は、キルケゴール『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』で突き詰めたように、理性では理解できない不可能から跳び超えること、神、絶対者を信じることです。
 詩は跳び超えられずにいる人間の裸の姿のままにあること、と私は考えています。

 真。善。美。
連星のようにともに強く引きあいながらも、思想は真に、信仰は善に、詩は美に、こがれ、追い求めずにはいられないものだと、私は考えています。

 次回は、ルクレティウスの作品とは全く異質な、日本の詩歌の伝統について考えます。
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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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