『紫式部集』から彼女らしさを感じる歌を選び出しました。
ゆたかな歌物語
『源氏物語』に織り込められた
創作歌794首は除いた、彼女の自選だとみなされている、
約百数十首の私家集です。ここには七首のみ選びましたが、彼女の歌の特徴が現れていると思います。
彼女の和歌は、まっすぐです。ストレートに思いを綴っています。心のみ見つめた内省そのものの歌もあります。
基調音は
悲哀の情感です。いのちの憂さと悲しみに揺れ、花開いた、あはれの歌です。
『源氏物語』の豊かに揺らめく大河とおなじ基調音にふるえる滴のようです。ああ、という声になるかならないほどの彼女の吐息が心を染めます。
複雑な修辞もなく、常識的な穏やかな言葉を選び、古歌の知識も理知と機知のひらめきも見せびらかすこともないので、独立した和歌として、歌人として高く評価されなかったのは、わかる気がします。
でも、私はこれらの歌を読むと感動し、いい歌、好きな歌だと感じます。彼女の真実の思いが込められていて、彼女が
悲しみを深く感じて心揺れ動くもの、感動を言葉にしているからだと、私は思います。
紫式部の歌は、とてもまっすぐ、素朴で純真。詩歌を愛する私にとって嬉しい発見です。
◎引用・『紫式部集』から。若竹の おひゆくすゑを 祈るかな この世をうしと いとふものから(若竹のような幼いわが子の成長してゆく末を、無事であるようにと祈ることだ。自分はこの世を住みずらい所だといとわしく思っているのに。)
数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり(人数でないわが身の願いは、思い通りにすることはできないが、身の上の変化に従っていくものは心であることだ。)
心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず(私のような者の心でさえ、どのような身の上になったら満足する時があるだろうか、どんな境遇になっても満足するこよはないものだと解ってはいるのだが、諦めきれないことだ。)
忘るるは うき世のつねと 思ふにも 身をやるかたの なきぞわびぬる(人を忘れるということは、憂き世の常だと思うにつけても、忘れられた身のやり場がなく、切ない思い泣いたことです。)
おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも(あなたに飽きられた晩秋のこの頃の悲しみを思ってみて下さい。今夜の月のように美しい方にあなたの心が奪われていらっしゃるにしても。)
垣ほ荒れ さびしさまさる とこなつに 露おきそはむ 秋までは見じ(夫が亡くなり、垣が荒れてさびしさのつのっているわが家の撫子[なでしこ=とこなつ]に、秋には涙をそそる露が更に加わるであろうが、そんな秋までは私は生きて見ることはないであろう。)
世の中を なにか嘆かまし 山桜 花見るほどの 心なりせば(山桜の花を見ている時の心のように、物思いのない心であったなら、この世の中をどうして嘆こう。)
出典:
『紫式部日記 紫式部集 新潮日本古典集成』(山本利達 校注、1980年、新潮社)
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