今回は、
ダンテの『神曲』を詩歌作品として読みとりながら私が考えたことを短く記します。
数回のエッセイのなかで私は『神曲』に教えられるところ、素晴らしいと感じるところだけを述べ、またダンテを詩人として敬愛すると書きました。
バランスをとるために付け加えると、私はダンテを聖人とも現世での崇拝すべき人とも思っていません。彼は政治的な闘争にまみれた人物だったし、党派抗争のリーダー格で戦闘にも加わっていて、激しい憎悪を、強い愛の感情とともに抱き合わせ持った人物でした。そのような彼の生き方や人格を私は好きなわけではありません。
『神曲』の地獄篇にも、抗争した人々への敵意と憎悪を持ち込んで書かれた多くの文章があって、その歌を私は良いとは思いません。
ではなぜダンテを『神曲』を読み、伝えようとするのか?
私にとって
文学は、泥水に咲く蓮の花です。蓮の花の幻に近いけれど、感じ取れるのだから、作品として咲いていて、確かにあり、幻ではありません。
私がダンテを詩人として敬愛するのは、泥水に咲く蓮の花を、
命をかけて咲かせた人だからです。その白い花は近くで見ると、泥がたくさん付いていて痛み色褪せた汚れた部分も合わせもっています。それでもその花全体を、とても美しいと感じてしまう花です。
たとえば、
マキャベリも現世の時間はダンテと同じように政治の狡猾な駆け引きと殺し合いの汚辱にまみれて生きた後、そのあらゆる知恵をこめて『君主論』を書き上げました。その知力の強さは凄いけれども、『君主論』は花ではありません。現世の生活の泥の知恵で練り上げ固めた大きな泥の像です。
花より人間にちかい人物像だから泥のままなのかもしれません。
私は、泥池に生き、そこから白い蓮の花を咲かせた、ダンテが好きです。
マキャベリの頭はとても良いけれど、花を咲かせることに関心がなかった彼に私もあまり関心をもてません。彼と同様、激しい殺し合いの時代、中国の春秋戦国時代に生きながら、「兼愛」を唱えた
墨子(ぼくし)を私は人として尊敬していて、彼についてはいつか書きたいと考えています。
私は、幻のような、けれど確かにある、白い蓮の花を、泥池に咲かせたいと願って、泥水に溺れそうになりながらも今を生きています。
ただ、泥池の周りには、草花の微笑や、風のくちづけや、青空でくじらぐもが泳ぎ、雨粒が時おり届けてくれる虹のひかりやわんちゃんや小鳥、子どもたちの遊ぶ声が弾けていることを忘れてはいません。
そして、
思いやりやいたわりを大切にする優しい心のひと、愛することをしるひとが今、生きていることを。忘れたらもう
美しい詩歌の花は咲いてくれません。
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