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いのり・魂・心・歌・詩『地獄の歌 火の聖女』(二)

 詩人・森英介、本名佐藤重男の詩集『地獄の歌 火の聖女』をみつめます。
 彼の生きざまを前回記しましたが、彼も詩人の峠三吉や原民喜、作家の太宰治と同じ過酷な時代を生き抜いたひとりの人間の心を深く知る文学者です。

 今回から、彼の詩を次のようにとりあげみつめていきます。彼の詩集は7百頁を超え、九十余篇の詩で構成されていて、個々の詩も長い作品が多くあります。どのような引用が最も良いか考えました。
 私は詩を読む立場では次のように考えています。詩作品全体で初めて得られる感動が一番大切ですが、それと同時に>心に焼きつく詩句それだけの裸身の輝きもまた、詩の偽らざる感動です。ですから、彼の詩集から、強く感動した詩篇全体と、強い響きの詩句を含む詩連を選ぶことにしました。
 具体的には次の著者による解説と16の詩作品です。
(抄)とある詩は、全体ではなく長さを考慮しやむを得ず略した詩連を含みます。

 解説(抄)、童子(抄)、捨身(抄)、七月、風雨哀哭(抄)、落日(抄)、禽獣(抄)、どぶ浚ひ(抄)、
粉雪、火の歌、蒼穹(抄)、天の花束、生(抄)、母、酬い(抄)、冬、 ねがひ。


 それぞれの詩について、感動したままに私の詩想を☆印の後に添えたいと思います。

 今回は森英介による詩集の解説冒頭の歌と言葉です。

●「解説」から。

これがわたしの歌、
誰かゞ遠くで泣いてゐる。
架橋のした、
うすくもりびの流れのみづおも。
どこへもゆかない
熱い いのりだけが残つた、
これがわたしの歌。

 詩は学問でもなく技芸でもない、その時々に燃焼する魂の記録、心の思ひ迫つた訴へにほかならないといふ朔太郎の言葉が真実ならば、私の歌も詩といへようか。


☆ 私の詩想
 「熱い いのり」、「燃焼する魂」、「心の思ひ迫つた訴へ」、そのような「歌」を、詩と感じるか、考えるか、人により、詩人により、異なります。それはそれで良いと思います。
 いつの時代にも、そのような歌を詩だとはみなさず見下した学者や自称専門詩人はいました。そして戦後、1945年以降に現代詩を自称、主張してきた大多数の知的な現代詩人は、同様に見下していると私は思います。だからこそ、森英介のこの詩集を埋もれさせてしまいました。

 私は少数派ですが、そのような歌こそ、詩だと考えている人間です。なぜなら、詩の本質は感動であり、感動は生きようとする人間の「熱い いのり」、「燃焼する魂」、「心の思ひ迫つた訴へ」、そのような「歌」だからです。素直に言えばそのような歌にめぐり会え触れえたときに感動せずにいられないから、私は文学、詩を好きなのです。

 そのような私には、現代詩人の知的な技巧に優れた巧みな構成の「現代詩」はうまいと思っても心ふるえないので、読むと虚しくさびしくなります。平安期貴族の唐の文芸を模倣した漢詩のようで、傲慢で得意げな気取りが鼻について嫌になります。
 でも一方で、いつの時代も、今も変わることなく、文学を、詩歌をかまえずに愛する人は、その心は素直に、そのような「歌」こそ詩だと、自然に感じとっています。読んで感動し時に心で涙します。そのように断言できるのは、私が「現代詩人」ではなく、そのひとりだからです。

 私が、素晴らしい詩だと感じずにはいられない、森英介の「歌」そのものを、次回から見つめます。

出典:『地獄の歌 火の聖女』(森英介、北洋社、1980年、復刻版)。
*漢字の旧字体は読みやすさを考慮して常用漢字に直したものがあります。

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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