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紫式部『源氏物語』の物語論(一)

◎『源氏物語』に思う
 紫式部は『伊勢物語』の清流をうけ、『源氏物語』という豊かな川、文学の海に注ぎ込み輝き続ける大河を生み出しました。正直に告白しますと、私が『源氏物語』全巻を通読できたのは今回が初めてです。与謝野晶子の全訳で読みました。これまで10代、20代の時から「文学が好きなら読み切らないと恥ずかしい、読み切りたい」と思いつつ、有名な巻のつまみ食いと、前半まででの中断挫折で終わっていました。
 今回読み通してこの作品は後半から結末に向かうほど深みと凄みを増していることを知りました。前半は光源氏の恋愛遍歴と栄華が主軸で最後までこの調子かと浅はかに思い込んでいましたが、「若葉」の巻以降、特に宇治十帖には、生きる喜びと裏表の悲しみ、光に生まれる陰影、涙と嘆きに祈りの哀しみが染み透り、静かに深く惹き込まれ感動し読み終えました。
 素直な気持ちを記すと、日本の文学、古事記から現代の小説、古代歌謡から近現代詩歌を見渡す時に、そのもっとも豊かな川は『源氏物語』だ、世界の文学の海全体を眺望した時にも、『源氏物語』はその波うつ光の流れが世界の文学の海を豊かにしていることが自然に感じられる作品だと思いました。日本語で詩を書く人間として心から嬉しく励みともなります。この豊かな流れにほんのささやかなものでも良い日本語の詩の響きを注ぎ込みたい、という思いがふくらみます。

 紫式部は『源氏物語』「蛍」の巻の源氏と玉鬘(たまかづら)の会話で、物語(小説)について語っています。物語の本質を教えてくれるその言葉に、私が感じ考えたことを次回から数回に分けて記します。

 以下は、『源氏物語』蛍の巻の該当箇所の与謝野晶子訳原文です。(紫文字は上記文章での引用箇所です。)

 源氏はどこの御殿にも近ごろは小説類が引き散らされているのを見て玉鬘に言った。
「いやなことですね。女というものはうるさがらずに人からだまされるために生まれたものなんですね。ほんとうの語られているところは少ししかないのだろうが、それを承知で夢中になって作中へ同化させられるばかりに、この暑い五月雨(さみだれ)の日に、髪の乱れるのも知らずに書き写しをするのですね」 笑いながらまた、
「けれどもそうした昔の話を読んだりすることがなければ退屈は紛れないだろうね。この嘘ごとの中にほんとうのことらしく書かれてあるところを見ては、小説であると知りながら興奮をさせられますね。可憐《かれん》な姫君が物思いをしているところなどを読むとちょっと身にしむ気もするものですよ。また不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれてしまうこともあるし、またまずい文章だと思いながらおもしろさがある個所にあることを否定できないようなのもあるようですね。このごろあちらの子供が女房などに時々読ませているのを横で聞いていると、多弁な人間があるものだ、嘘を上手に言い馴れた者が作るのだという気がしますが、そうじゃありませんか」 と言うと、
「そうでございますね。嘘を言い馴れた人がいろんな想像をして書くものでございましょうが、けれど、どうしてもほんとうとしか思われないのでございますよ」
 こう言いながら玉鬘(たまかずら)は硯(すずり)を前へ押しやった。
「不風流に小説の悪口を言ってしまいましたね。神代以来この世であったことが、日本紀( にほんぎ)などはその一部分に過ぎなくて、小説のほうに正確な歴史が残っている」のでしょう」と源氏は言うのであった。
だれの伝記とあらわに言ってなくても、善いこと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって小説というものが書き始められたのだろう。よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られているものが小説であると見ればよいかもしれない。支那(しな)の文学者が書いたものはまた違うし、日本のも昔できたものと近ごろの小説とは相異していることがあるでしょう。深さ浅さはあるだろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御心(みこころ)で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。方等経(ほうとうきょう)の中などにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、菩提( ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪いということが言われてあるのです。つまり小説の中に善悪を書いてあるのがそれにあたるのですよ。だから好意的に言えば小説だって何だって皆結構なものだということになる」と源氏は言って、小説が世の中に存在するのを許したわけである。

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)入力:上田英代、校正:砂場清隆。
(古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)の入力ファイル利用)
底本:「全訳源氏物語 中巻」与謝野晶子訳、角川文庫、1971年。


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同
「愛(かな)」1993年同
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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