今回からの数回は、
新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作
『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記していきます。
この美学の視点から文学について考察した書物は
赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。
初回は、詩、抒情詩の本質についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。
●以下は、出典からの引用です。
詩の言葉は小説の言葉のようにまっすぐ対象をさし示さない。いや、言葉である以上はいったんかならず対象のほうへむかって出てゆくにちがいないのであるが、どこかでいちど屈折してふたたび言葉のほうへ戻ってくる。そして、そこへ言葉同士だけの密接な網を張りめぐらそうとする。つまり、詩は小説とちがって、われわれの注意を書かれている対象のほうへ誘導してくれるのではなく、むしろそれとは逆の方向へ引きもどしながら言葉の網で掬いとってしまうのである。
われわれとしては、さしあたりはもっぱら網の出来ぐあいでも鑑賞しているよりほかない。言葉と言葉とがどれほど的確に結びあわされているか、その結果、手垢にまみれた日常語がいかにおもいがけない意味と響きをおびて輝いて見えるか、こういうことを捉える繊細な感受性、特殊な能力が詩を読むにあたっては要求される。これを欠く人に詩は無意味な文字の羅列にすぎないであろう。詩が小説より気楽に読めないのはこのためである。(略) ●出典の引用終わり。
◎著者はここでまず、詩という表現の特質を、小説と比較することで、概説しています。「まっすぐ対象をさし示す」小説の言葉とちがって、詩の言葉は、「屈折してふたたび言葉のほうへ戻ってくる。そして、そこへ言葉同士だけの密接な網を張りめぐらそうとする。」、「その結果、手垢にまみれた日常語が」「おもいがけない意味と響きをおびて輝いて見える」。
私も言葉そのものへの、言葉の結びつきへの、こだわりの強さと感受性の繊細さから、詩は生まれると思います。ただ、その特殊な能力は書き手には要求されますが、生まれ出た作品が良いものなら、読者のもつ感受性を呼び覚ましてくれると思います。だから、読むことに特殊な能力は要求されません。気楽に読み、好きになることで、感じとれるものがより豊かに深まり、拡がってゆくと思っています。次に、著者は、多様な姿で表現される詩のうち、抒情詩に焦点をより絞り、より細やかにみつめていきます。
●以下は、出典からの引用です。
抒情詩の言葉は、小説の言葉とちがって、対象への方向をそのまま残してはいない。対象へむかう方向は、それと正反対の方向、つまり心情的なものへむかう方向へと屈折してしまっている。言葉の対象的意味はかたはしから心情的なものに浸潤され、ことごとくそのなかへ溶解されてしまっている。この屈折した方向をたどってゆくと、その先には詩人の心情がある。
抒情詩の言葉は直接に詩人の魂に繋がっている。その言葉は生ま身の人間の発する言葉である。抒情詩には、小説の場合のような、作者から切り離された語り手、言葉のなかへ入り込んだ語り手は存在しない。ここで語っているのは作者そのひとである。
抒情詩はまぎれもなく生きた人間の心情の表現、詩人の魂の告白である。それは小説のように虚構の語り手によって語られるフィクションではない。その言葉はちゃんと事実の世界のなかにそれと照応するものを、つまりその詩を書いた詩人の心情を持っている。この点では、抒情詩は小説よりもかえって歴史や報道にちかい。その言葉はフィクションという防壁に守られず、いわば裸のまま事実の世界のなかに放りだされているからである。 ●出典の引用終わり。
◎著者は、抒情詩について、その核心から語りだします。抒情詩のいちばんの本質は、「生きた人間の心情の表現、詩人の魂の告白である。」と私も思います。万葉集の正述心緒(せいぶつしんしょ)、ただにおもいをのぶるうた、心を直接うたう歌です。
「言葉の対象的意味はかたはしから心情的なものに浸潤され、ことごとくそのなかへ溶解されてしまっている。」「その先には詩人の心情がある。」、これが抒情詩の純粋な姿だと思います。
続けて著者がいう、「小説の場合のような、作者から切り離された語り手、言葉のなかへ入り込んだ語り手」を存在させる抒情詩も創りうるし、私自身創ってきましたが、その場合でも、抒情詩であるかぎり、「その言葉はちゃんと事実の世界のなかにそれと照応するものを、つまりその詩を書いた詩人の心情を持っている。」ことは確かだと思います。
●以下は、出典からの引用です。
詩人は特権を持っていない。かれは素手で言葉と格闘する。われわれの手垢にまみれ、それがあらわす対象にしっかり膠着してしまっている言葉を、まず対象から引き離し、丹念に汚れをとり、たったいま生まれたばかりの柔らかく新鮮な状態にまでもどすこと――これが詩人の仕事である。詩人の手にかかると言葉はおもいもかけぬ綺麗な生地を現わしてくる。そして、それを使うものの心情をじつに敏感に反映して自在に揺れうごくものとなる。こういう言葉をあつめてきて、ひとつの有機体にまで纏めあげること――これが抒情詩を書くということなのである。
言葉はここでは対象的意味によってたがいに結び付くのではない。それらを結び付けるのはもっぱら詩人の心情であり、そこに歌われる気分である。この点では、抒情詩は歴史や報道の逆である。後者がもっとも大事にしているもの、言葉と対象的事実の正確な照応ということが無視されて、それとはまさに反対のもの、言葉の心情表現の面だけがここでは強調されるからである。 ●出典の引用終わり。
◎次に著者は、抒情詩を書く、という行為そのものを、美しく描き出します。
「対象にしっかり膠着してしまっている言葉を、まず対象から引き離し、丹念に汚れをとり、たったいま生まれたばかりの柔らかく新鮮な状態にまでもどすこと――これが詩人の仕事」であり、「それを使うものの心情を」「敏感に反映して自在に揺れうごくものとなる。こういう言葉をあつめてきて、ひとつの有機体にまで纏めあげること――これが抒情詩を書くということ」。
「言葉の心情表現の面」を最大限に強調して、「詩人の心情」が言葉を結び付けあいます。
「生まれたばかりの柔らかく新鮮な」「おもいもかけぬ綺麗な」「自在に揺れうごく」、言葉をこのような姿で蘇らせるもの、それは、詩人の心、魂の、驚きと感動と美にたいする感受性のおののきです。
私はそれこそが、詩人の創作動機、書かずにはいられない、伝えずにはいられない詩人の情熱の源であり、抒情詩に生命の息吹をあたえるものだと、思います。
●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房) 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。
☆ お知らせ ☆
『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日、
イーフェニックスから発売しました。
(A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
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詩集 こころうた こころ絵ほん イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
こだまのこだま 動画
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