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『詩学序説』新田博衛(三)詩は音楽。詩は絵画。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回からは、抒情詩に限定しない、よりひろい詩についての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
日常の言葉は、このように、たえず不安定な状態にある。表現された意味は、ここでは、つねに未完結的であり、多義的であり、流動的である。数学や論理学が日常言語を嫌悪し、それが自分の体系の中へ混入することを極度に怖れるのも無理はない。
 詩は、これに反して、日常の言葉を怖れない。いや、むしろ、それを愛好する。詩人のつかう言葉は、任意に規定された一義的記号ではなく、人々の手垢によごれ、意のままにならぬ多義性をもち、過程的にしか機能しない言葉である。

いわばエネルゲイアにすぎないこの日常言語をもちいて、しかし、詩人は一箇のエルゴンを作りだす。
 詩の言葉は、もはや、われわれの言葉のように不安定ではない。それは極度に安定した言葉、それに何を加えることもできず、そこから何を引き去ることもできない完結した言葉である。

 サッポオの断片三十一の第一行目は、次のようなリズムをもっている。
 ― ~ ― ― ― ~ ~ ― ~ ― ~
(古代ギリシア語詩行 略)
日常の言葉なら、同じことを言うのに、おそらくシラブルの数を増減したり、その順序を入れ替えたりすることをゆるすであろう。ここでは、それは、ただちに音楽の、したがって詩の破壊を意味する。つまり、ここに言われていることは、この順序にならべられたこれらの単語でしか言えないのである。(略)    ●出典の引用終わり。

◎詩の本質についての考察の冒頭でまず著者は、詩の言葉の特質を、日常の言葉と対比して描き出します。
「日常の言葉は、」「不安定な状態」であり、「表現された意味は、」「つねに未完結的であり、多義的であり、流動的である。」そのような日常言語を用いて詩人は、詩を創ります。創られた詩の言葉は、「極度に安定した言葉、それに何を加えることもできず、そこから何を引き去ることもできない完結した言葉」です。
どのようにして? 作曲するように、音楽を創るようにです。
 著者はここで詩という文芸の本質を捉え、次のように言います。
「日常の言葉なら、同じことを言うのに、おそらくシラブルの数を増減したり、その順序を入れ替えたりすることをゆるすであろう。ここでは、それは、ただちに音楽の、したがって詩の破壊を意味する。つまり、ここに言われていることは、この順序にならべられたこれらの単語でしか言えないのである。」
 私も著者のこの言葉の通りだと思います。逆に言えば、「この順序にならべられたこれらの単語でなくても言える」ような文は、詩に高められていない、音楽として完成していない、ということです。
 このことは、日本の優れた和歌や俳句を思い浮かべればよくわかります。それらの歌の、一文字、一語を動かし、変えることは、そのままその歌の破壊です。
 続けて著者は、詩と音楽についての省察をさらに深めます。

●以下は、出典からの引用です。
翻訳可能という点についていえば、詩の意味が、日常言語のそれとちがって、できるだけ音声に内在しようとする傾向をもつことを指摘するだけで、反証としては十分であろう。古代ギリシア語という特定の音韻組織の中で成立した響きとリズムとを、他の音韻組織をもつ言語、たとえば英語とか日本語とかへ移すことはいうまでもなく不可能であるが、重要なのは、詩の場合には、この響きとリズムとを移さなければ言葉の意味を移したことにならない、という点である。(略)

言表命題と見なさないで、むしろ(略)リズムをもち(略)響きとうねりをもつ一箇のメロディのように考えてしまうほうが、この点からいえば判りやすいかもしれない。メロディの意味は音と音との連続の内にしかない。
言葉の意味は、ふつう、音声を超えたところにある。われわれが日常の言葉を聴くとき注意を向けるのは、話し手の口から出ている音ではなくて、それを超越したところに在る意味である。われわれは話の意味、相手の喋っていることの内容を話し手の声音から分離して、それ自体として扱うことができる。混み入った話であれば整理し、長い話であれば要約し、さらに外国語であれば自国語に翻訳することさえできる。
 メロディについては、これらすべてが不可能である。或るメロディを他のメロディによって整理したり、要約したり、翻訳したりすることはできない。メロディが難解なとき、それをもっと易しい幾つかのメロディでパラフレーズすることはできない。われわれにできるのは、そのメロディの一音も聞きのがすまいと耳を澄ますことだけである。そして、この点からいえば、詩は言語よりもむしろ音楽に近いのである。(略)      ●出典の引用終わり。

◎著者は、詩は「リズムをもち」「響きとうねりをもつ一箇のメロディ」であり、「メロディの意味は音と音との連続の内にしかない。」と、その詩の本質を伝えてくれます。
「日常の言葉を聴くとき注意を向けるのは、話し手の口から出ている音ではなくて、それを超越したところに在る意味である。」
 それに対して、「詩は言語よりもむしろ音楽に近い」、「われわれにできるのは、そのメロディの一音も聞きのがすまいと耳を澄ますことだけである。」と。詩の音楽性については、ここに書かれている通りだと私は思います。

 ここでは、古代ギリシアのサッポオの抒情詩を考察の対象としているので、詩の言葉が動かせない要因を、その音楽性、メロディに限って考察していますが、より広く詩歌という視野で捉えると、私は次の観点も加えられると考えます。
 それは、文字の視覚性です。詩は音楽であると同時に、絵画でもあります。余白、詩連、詩行、そして詩句一文字一文字が、その要素です。
 さらに日本語の長所として、一つの詩句を表現する場合にも、ひらがな、漢字、カタカナを使い分けることができます。角ばった漢字と、やわらかな曲線のひらがなでは、視覚から心に溶け入る心象がおおきく異なります。これら以外にも詩句どうしの並び方、漢字の字形の類似など、さまざまな要素を用いて、詩は白紙に描かれる絵画です。日本の書の美意識をも受け継ぐものだと私は思います。
 詩の意味はここでは、これらの要素に溶かし込まれて一体化しています。完成した絵画は、その要素である色と形を動かすことをゆるしません。それは、絵画の破壊、詩の破壊となるからです。

 詩は音楽であり絵画だから、溶け込んだ意味が浮かびあがらせ伝えてくれるものは、美と、感動です。そのような詩を私は愛します。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。
 ☆ お知らせ ☆

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 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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