今回は、勅撰和歌集、アンソロジーについて想うことからの雑感です。
「古今和歌集」を読み返し、「和漢朗詠集」を初めて読み、「千載和歌集」を読も始め、「新古今和歌集」も読み返そうと思っています。好きな歌を抜き出してエッセイも書けたらと願ってもいましたが、中断してしまいました。
ひとつには、勅撰和歌集(詩のアンソロジーも同じと考えています)には、撰者の好み、詩観が、ある程度反映されて、集としての色合いがでるの確かですが、私の詩についての想いからすると、詩は個人の心の深みから湧き上がる泉であることでこそ、読者の心の泉につながるものなので、個々の歌人、詩人の、個々の和歌、詩こそが中心であるからです。
好きな、共感する歌人、詩人、和歌、詩に出会う場、花束であることがその良さです。けれどそのような歌人、詩人を見つけたなら、もっと感じたいと想うのが自然で、選ばれた作品だけでは物足りなくなります。
「万葉集」の古歌、東歌や防人歌、作者未詳歌、「古今集」の読み人知らずには、深くこころに響く歌がおおくあり好きですが、「古今集」でしか知られない小野小町を読んだなら、和泉式部歌集、紫式部歌集、西行の歌集、式子内親王歌集、源実朝の歌集と、心につよく響く歌人の魂にこそ、再会したくなりました。ですから、勅撰和歌集は、ゆっくり読み返そうと思っています。
私の心は、放浪癖があるので、このように書きながら、ここのところは、「浄土三部経」を読み「法華経」を読み、鎌倉仏教文学を読もうと、てくてく歩いています。青年期から原始仏教はさまよったのですが、大乗経典には立ち入りませんでした。今読みながら、日本の古典文学を理解するうえで欠落するものが多くあったことを感じています。
とはいえ、私には遡りたいという心性が根付いているので、原始仏教も、原始キリスト教やグノーシス派、ジャイナ教についても見つめ感じ直したい、オリエントの古代文書、できれば中国詩歌も読みたいと、心の旅に憧れています。
文学も詩歌も宗教も哲学も、人間の心をとおして世界、いのちをめぐる旅であることにちがいはない、さまよい、放浪、憧れ、祈りとして響きあうと、私は思います。
次回は、11月8日に新しい詩作品の公開をお知らせします。
詩の創作を第一に、心の放浪をしていますので、エッセイ、詩想は、断続的になりがちですが、美しい景色や泉を見つけたときに書けたらと思っています。
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