今年十月下旬に私の父は癌でなくなりましたが、再発入院した九月に私には生涯忘れられない事がありました。私の姪、父の孫が見舞いに駆けつけてくれたときに「おじいちゃん、戦争の話、聞かせて」と話しかけてくれて、父は話してくれました、私も聞かされたことのなかった
父の戦時の記憶を。 終戦が差し迫っていた年、父は小学生でしたが、父と母と末の妹(私の祖父と祖母と叔母)を亡くしました。戦地に赴く父の兄を見送りに行った時に潜水艦との衝突事故に巻き込まれての悲しい死でした。取り残された兄弟姉妹の戦時の苦しい体験をこれまで以上に詳しく聞けました。
船が引き上げられた時、私の祖父と祖母は非常脱出階段の近くで手を取るように横たわっていたそうです。私の叔母(父の妹)は、見つかりませんでした。「まだ小さかったから魚たちに食べられたんやな」、父の悲しみ。
(私が二十代の時に父が話してくれた少年時代のこの話から、私の詩
「海は月のひかりに満ちて」は生まれました)。
父が初めて語ってくれたのは、次の話です。その頃田んぼのなかの道を歩いていた時、突然
アメリカの戦闘機が襲ってきて射撃の的のひとつとして狙われ追われた。田んぼで農作業をしていた人たちを無差別に射撃してきて皆身を伏せるなか、道にいた父の数メートル先の路上にも弾丸が喰い刺ささった。何度か繰り返し、そこにいる誰かを殺そうと、戦闘機は舞い戻り射撃し、飛び去って行った。
その時少し離れた土蔵の白土の壁が被弾し、抉られ、崩れ、大きな丸い穴があいていた。
父がもし撃たれていたら、私も姪も存在しなかったんだと思わずにいられません。
もうひとつ、父の故郷、
坂出の隣町、高松の空襲。アメリカの爆撃機の編隊は、高松に爆弾の雨を降らせると、瀬戸内を越え岡山を爆撃しまた上空を回り戻ってきては高松をと、何度も繰り返し爆撃した。高松では避難場所の人が逃げ集まった公園区域を集中爆撃した。このことも、孫たちへの思いやりもあり、事実だけ淡々と優しい顔で語ってくれました。
でも私は、父が生涯忘れることのできなかった少年時のこの記憶に焼き込められている、父の感情と思いの強さの、ありのままのものを、考えずにはいられません。
父が話してくれた表情を思い浮かべながら、私は、敬愛する作家・
崎本恵さん(詩人・神谷恵さん)の小説
『時の疼(いた)み』を読み返しました。
次回はこの小説を通しての思いを記します。
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