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赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(四)過ぎゆくものを

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
 今回も前回に続き、論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 三
 式子内親王の歌における時間には「今」を視点として眺める主体があることは、その詩的空間の原典に身体があり、身体が住みつく家があったのと同じ原理として考えることができる。眺めながら眺められる存在、閉ざしながら開かれた存在としての身体や家を詩的空間の中心に考えたのであるが、時間の場合には、今、この場所を原点として眺める視線の運動として表現されている。

   とどまらぬ秋をやおくるながむれば庭の木のはの一かたへゆく  55
  <とどまらぬ あきをやおくる ながむれば にわのこのはの ひとかたへゆく>

   さびしさは宿のならひを木のはしく霜のうへにもながめつるかな  59(玉葉・冬 九〇〇)
  <さびしさは やどのならいを このはしく しものうえにも ながめつるかな>

 ここに表現されている視線は一定の方向をもっている。それは秋の行方であり、季節の過ぎゆきである。
 このように時間の経過を現象の中に追う「ながめ」は、新しい視覚である。風によって一方へ散ってゆく木葉の方向は秋を見送る方向であり、木の葉の散り敷いた上に置く霜も時間の経過を示している。季節の運航を時間として捉え、表現したものであろう。

   くれて行く春の名残をながむればかすみのおくに有明の月  118(玉葉・春下 二八六)
  <くれてゆく はるのなごりを ながむれば かすみのおくに ありあけのつき>

   花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る  219(新古今・春下 一四九)
  <はなはちり そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 ここにも時間の経過を眺める視線が捉えた空間が表現されている。どこまでも見届けよう、眺めつくそうとする態度は、王朝の「ながめ」が半ばは外に、半ばは内に向けられた中途半端な視覚であったのとは一線を画する。(略)(出典引用1終わり)

☆今、この場所を原点として眺める
 赤羽淑は、式子内親王の四首に詠まれた「ながめ」を感じとります。私は、「式子内親王の歌における時間には「今」を視点として眺める主体がある」、「今、この場所を原点として眺める視線の運動として表現されている。」、このことが、歌に濃やかさと同時に強靭さを生んでいると感じます。

 「今」を強く意識し感じとる態度は、言い換えると、自分が生きている今、生き歌っている今に、集中し、燃え尽くそう、生き尽くそうとする意思の強さだといえるからです。
 時間の経過を現象の中に追う「ながめ」の主体として内親王は、「どこまでも見届けよう、眺めつくそうとする態度」で、意思で、感受性を研ぎ澄まし、より繊細に、より細やかに、感じとり、言葉を選び、美しい歌を生み出せたのだと、私は感じます。

◎出典からの引用2
 式子内親王の歌における視線は、一定の方向を追いながら、過ぎゆくものを見ている。

   いづかたへ雲井のかりのすぎぬらん月はにしにぞかたぶきにける  49
  <いずかたへ くもいのかりの すぎぬらん つきはにしにぞ かたぶきにける>

   かへるかりすぎぬる空に雲消えていかにながめむ春のゆくかた  120
  <かえるかり すぎぬるそらに くもきえて いかにながめん はるのゆくかた>

同時に過ぎゆくものとしての自分自身を直視する。

   春くればこころもとけて淡雪のあはれふり行く身もしらぬかな  4
  <はるくれば こころもとけて あわゆきの あわれふりゆく みもしらぬかな>

と、歌いながら、その視線は自分の上にも過ぎてゆく時間を眺めている。(出典引用2終わり)

☆過ぎてゆく時間を眺め
「今」を生きることに鋭敏な主体は、その今が、刻々と、過ぎゆく時であることを、いつの瞬間にも、感じずにはいられません。
 赤羽淑がここで捉えるとおり、内親王は「歌いながら、その視線は自分の上にも過ぎてゆく時間を眺め」ています。こころをひりひりとさせながら。どのような情景をみても、直接言葉にしなくても、歌を詠みながら、
「自分の上にも過ぎてゆく時間を」感じずにいられません。
 だからこそ、「過ぎゆくものとしての自分自身を直視する。」とき、その歌は、絶唱です。強く心を捉えられます。
 「春くれば」の歌は、あわゆきのようにすきとおるこころのかなしみが、美しいしらべになり流れすぎてゆく、いのちの清流のよう、私のとても好きな一首です。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年同上
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年同上
「愛(かな)」1993年同上
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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