長崎の被爆の惨状と命を助けようとする医師の格闘を描き伝える、
永井隆の『長崎の鐘』に、わたしもまた強く心を打たれた一人です。
永井隆の命をかけた言葉が伝わることを、原民喜も強く願いました。二人の言葉、祈りを心に刻み、忘れずに生きたいと私は願います。
永井隆
「原子野に泣く浦上人は世界にむかつて叫ぶ、戦争をやめよ。」原民喜
「恐ろしいのは多くの人々がまだ原子力の惨禍をほんとに鋭く感じとることが出来ないといふことだ。僕はこの書物が一冊でも多く人々によつて読まれ、一人でも多く「戦争をやめよ」といふ叫びがおのおのの叫びとなつて反響することを祈る。」●
出典からの引用「長崎の鐘」原民喜 昭和二十年八月九日、広島から四里あまり離れた地点で、僕は防空壕の中にゐた、あの不思議な新兵器のことは、この附近の人にも知れ渡つてゐたが、まだ何といふ呼び方をするのか判らなかつた。(略)
僕があれの名称を知つたのは八月十六日だつた。新聞の届かない僕たちのところへ、町からやつて来た甥がゲンシと耳なれぬ発音をした。と、ゲンシといふ音から僕はいきなり原始といふイメージが閃いた。あの僕の眼に灼きつけられてゐる赤く爛れたむくむくの死体と黒焦の重傷者の蠢く世界が、何だか原始時代の悪夢のやうにおもへた。ふと全世界がその悪夢の方へづるづる滑り墜ちるのではないかとおもへたものだ。
しかし、もう戦争は終つてゐたのだ。戦争は終つたのだといふ感動が、それから間もなく僕に「夏の花」を書かせた。あのやうに大きな事柄に直面すると、人間のもつ興奮や誇張感は一応静かに吹きとばされるやうである。僕は自分が体験した八月六日の生々しい惨劇を、それがまだ歪まないうちに、出来るだけ平静に描いたつもりである。(略)
僕は今度はじめて
永井隆氏の「長崎の鐘」を読む機会を得た。あの体験記を読んだ直後僕はやはり妙な興奮状態になつた。その夜、電車通を横切らうとすると、何かに躓いて僕はパタンと前へ倒された。僕は惨劇のなかにゐるような気がしたものだ。
昭和二十年八月九日、僕が壕のなかで縮こまつてゐる時、あれは長崎を訪れたのである。長崎医大の外来診察室であれに見舞はれた永井氏はその時のことをかう書いてゐる。
「目の前にぴかつと閃いた。……私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙にふきとばした。私は大きく目を見開いたまゝ飛ばされていつた。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかゝる。切られるわいと見ているうちにちやりちやりと右半身が切られてしまつた。右の眼の上と耳のあたりが特別大創らしく、生温い血が噴いては頸へ流れ伝わる。(略)」
それから傷病者の救済に奔走しながら、九月に入ると遽かに原子爆弾症患者が激増して来るが――この辺の状況は広島の場合とほぼ似てゐる――遂に永井氏も前から職業病として持つてゐた原子病が再発して病床に倒れてしまふのである。既にこの著者はあとあまり長くは生きられないことが確定してゐる。が今、死床にあつて、この人は何を人類に訴へ何を叫ばうとしてゐるのだらうか。この書の終りには書いてある。
「人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによつて、自らの運命の存滅の鍵を所持することになつたのだ。……人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾といふものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界にむかつて叫ぶ、戦争をやめよ。」
もしかすると人類は自分の運命を軽く小さく考へ、原子力の渦に巻き込まれてしまふことがないとも限らない。恐ろしいのは多くの人々がまだ原子力の惨禍をほんとに鋭く感じとることが出来ないといふことだ。僕はこの書物が一冊でも多く人々によつて読まれ、一人でも多く「戦争をやめよ」といふ叫びがおのおのの叫びとなつて反響することを祈る。
出典:
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)。入力:ジェラスガイ、校正:大野晋。
底本:「日本の原爆文学1」(1983年、ほるぷ出版)。初出:「近代文学」1949年10月号。
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