私が
原民喜に惹かれるのは、詩人、作家として心から敬愛し、また感性に似通うものをかんじるからですが、他の影響もあります。
そのひとつは、母の故郷が島根県の広島県との県境に近い中国山地の真ん中なので、幼年期に広島を経由して汽車の旅をした夏休みの思い出です。
広島に原爆が落ちた日、その雲を見たと叔父に聞きました。原爆ドームを何度も見ました。祖母も母もあの時原爆のすぐ隣にいたことは心から離れません。
もうひとつ、
彼の作品の本質が祈りであることです。
私の祖父は戦地で亡くなり、母は大阪に出てキリスト教の信仰を通して父と出会い結ばれました。だから私が初めて暗唱した詩は日曜学校で口ずさんだ「主の祈り」です。讃美歌も幼な心に沁みこみました。
原民喜は二十代で亡くなった大好きな姉から
聖書について聞いた思い出を懐かしく美しく書いていて、親しみに包まれます。
原民喜が広島での原爆被災時に書き付けた手帳の写真を今、次のホームページで見ることができます。
広島文学館http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/文学資料データベース1
原民喜「手帳」(全ページ)、「原爆被災時の手帳」解題 海老根勲。 筆跡と紙の汚れを見るだけで様々な思いが駆け巡ります。ここから彼は『夏の花』などの作品を生み出し、伝えてくれました。
原民喜は朝鮮戦争の勃発に深い悲しみを抱いて、亡くなる前年の暮れに
「家なき子のクリスマス」という題の、とても悲しい詩を書きました。救いのない絶望の詩なので、愛しい詩歌には選びませんでした。
絶望と祈りはほとんど見分け難いものと噛み締めつつ。
彼の死について、
藤島宇内が書いている引用した言葉は、本当に痛く、恐ろしいほど悲しいものです。
原民喜は嘆きに絶望に祈りになることしかもうできませんでした。私はただ悲しいとしか言えません。
けれど彼の美しい優しい心の詩は、今も私を、死ではなく、生きる方向に向かわせてくれる言葉であり続けることは確かです。なぜでしょうか?
彼の痛み、嘆き、願い、絶望、祈りが、人間の真実を教えてくれて、感動せずにはいられないからだと、私は感じます。感動は悲しみ、苦しみであっても、生きることそのものではないでしょうか。
私は原民喜が、彼の愛(かな)しい作品が、心から好きです。
◎引用
「原民喜の死と作品」藤島宇内
その世界へ、自分もこれから旅立つわけだが、その世界への扉をひらく方法としては、鉄路に横たわって電車に肉体を轢断させるというすさまじい方法をえらんだ。それは、彼が死後の世界で会おうとする人々が、姉や妻だけでなく、原爆で肉体をひき裂かれ悶え死んでいった無数の隣人たちでもあったからである。
出典:
「原民喜の死と作品」藤島宇内『新編 原民喜詩集 新・日本現代詩文庫64』解説(2009年、土曜美術社出版販売)
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