ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)の主著のひとつ
『エミール または教育について』(1760年)の第四篇にある
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」から、ルソー自身の宇宙観、世界観、社会観、宗教観が奔流のように流れ、私の魂を揺さぶり、想い考えずにはいられないと強く感じる主題が述べられた言葉を引用し、私がなぜ共感したのか、どの言葉に惹かれ、どう考えるのか、私の言葉を添えてきました。
どの主題についてもルソーが語っている言葉は、いまなお、向き合い想いを深めてくれるだけの、真実性を響かせていると私は思います。
今回が最終回。ルソーが不信心について述べた箇所です。
ルソーはここで、科学知識が積み重ねられるなかで、すべては科学で説明できるというような、科学的世界観に隠されている人為性と独断性について語ります。
彼がゆるせないのは(私もですが)、彼らの多くが、「万物の真の原理としてわれわれにおしつけようとする。」ことです。
以前、ニュートンの『プリンキピア』の言葉を引用したように、優れた本物の科学者は、科学にできること、できないことを知っています。人間にできること、できないことを偽りません。
科学は、自然現象を数値で体系的に「どのようにあるか」の表現する方法を発見し、より精緻にすることはできますが、それはあくまで人間による世界のひとつの見方に過ぎません。
その現象の原因、「なぜ自然があるのか」についても科学が解き明かせるだろうというのは、根拠のない楽天的な主張、また別のひとつの信仰です。
ルソーは、自然は、物質が無目的に組み立てられた固まり、とする科学信仰の独断性に隠された偽りと奢りがひき起こしていることを、次のように指摘します。
この言葉は、
ドストエフスキーが後期の長編小説群で語り続けたものと深くこだまして、私には聴こえます。
「人びとの尊敬するものをことごとくくつがえし、打ちこわし、踏みにじって、彼らは悩める人びとからは彼らの不幸の最後の慰めをも奪い、権力者や金持からは、彼らの欲念をおさえる唯一の手綱を取りのぞいてしまう。彼らは人びとの心の底から罪に対する悔恨と徳行に対する希望を抜きとってしまい、しかもなお自分を人類の恩人だなどと自惚れている。」
人間も動物です。個の生存のため、種の存続のため、他の生物と同じように、生存競争の世界に投げ込まれています。けれど、人間は、個の生存と種の存続のためだけに生きているのではない、と感じ考え、ちがう価値も抱いて生きてきました。「個の生存、種の存続」にそぐわず、犠牲とする場合であってさえ。
ルソーが書くように、それができたのは「宗教的な動機」があったからだと私は思います。
「宗教的な動機が、しばしば彼らが悪いことをするのを妨げ、そういう動機がなければあり得なかったような、徳行や賞讃に値する行動を彼からひき出せることは、疑えない。」
文学を愛する私にとって痛い言葉ですが、ルソーの次の言葉もまた歴史を振り返ると事実だったと思います。文学は人間の心を、深く感じとり伝えあいますが、文学そのものは、人間のありのままを、「個の生存、種の存続」に明け暮れる姿を、描き出していたものです。
「学芸が栄えたところではどこでも、人間愛がそのためいっそう尊重されることもなかったからだ。アテナイ人、エジプト人、ローマの皇帝、シナ人の残酷さがそれを証拠だてている。どんなに多くの慈悲深い行為が福音から生まれたことだろう。」
そのようであった文学、叙事物語に、愛の感情を、愛の感情から芽吹く美の感情を、愛の感情が根ざす善と悪の葛藤を、注ぎ込み、文学を深め蘇らせてきたのは、宗教感情だと私は思います。
逆に言えば、人間の魂を深くゆりうごかし感動を伝えてくれる本物の優れた文学には必ず、宗教感情が底流していて、愛と美が泉となってあふれだしています。
ルソーの『エミール』の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を、11回にわたって、感じとってきました。人間として生まれてさけてとおれない宗教について、私の経験と想いをふまえて、考えてきました。
読み返してみて、やはり私は、ルソーがこの書物に勇気をもって書き記し伝えてくれた想いに深く共感する私をみつけます。
最後に、私がこれからも忘れずにいたい、彼の言葉を、書き記します。
「傲慢不遜な哲学が、不信心へとみちびくことは、盲目な信心が狂信へみちびくのと同様だ。この両極端はさけなくてはいけない。」
「真実なことをいい、善いことを行なうのだ。」
● 以下、出典『エミール』第四篇「サヴォワの助任司祭の信仰告白」(平岡昇訳)からの引用です。 自然を説明するという口実のもとに、人の心のなかに、なげかわしい教義の種をまき、外見上は懐疑主義でいながら、その論敵たちの断乎とした調子よりも百倍も断定的で独断的な人びとを避けるがよい。自分たちだけが明識があり、真実をとらえており、善意があるという思い上がった口実のもとに、彼らはそのきっぱりした断定をいやおうなしにわれわれにおしつけ、彼らが空想にかられてでっちあげたわけのわからぬ学説を、万物の真の原理としてわれわれにおしつけようとする。
そればかりか、人びとの尊敬するものをことごとくくつがえし、打ちこわし、踏みにじって、彼らは悩める人びとからは彼らの不幸の最後の慰めをも奪い、権力者や金持からは、彼らの欲念をおさえる唯一の手綱を取りのぞいてしまう。彼らは人びとの心の底から罪に対する悔恨と徳行に対する希望を抜きとってしまい、しかもなお自分を人類の恩人だなどと自惚れている。
原注九六:
ある宗教を信じている場合、どんな人でもその宗教に一から十まで従っているわけではない。それは真実だ。大多数の人間はほとんど宗教を信じていないし、自分の奉じている宗教に少しも従っていない。それはさらに真実だ。しかし、結局のところ、ある人びとは一つの宗教を信じ、少なくとも部分的にはそれに従っている。そして、宗教的な動機が、しばしば彼らが悪いことをするのを妨げ、そういう動機がなければあり得なかったような、徳行や賞讃に値する行動を彼からひき出せることは、疑えない。
(略)
宗教というものが、いっそうよく知られてくると狂信は遠ざけられ、キリスト教徒の風習はいっそう温和になった。この変化は学芸のもたらしたものではない。というのは、学芸が栄えたところではどこでも、人間愛がそのためいっそう尊重されることもなかったからだ。アテナイ人、エジプト人、ローマの皇帝、シナ人の残酷さがそれを証拠だてている。どんなに多くの慈悲深い行為が福音から生まれたことだろう。
(略)
知識の乱用は不信仰を生みだすものだ。学者はすべて民衆の考えを軽蔑する。それぞれ自分だけの考えを持ちたがる。傲慢不遜な哲学が、不信心へとみちびくことは、盲目な信心が狂信へみちびくのと同様だ。この両極端はさけなくてはいけない。
(略)
真実なことをいい、善いことを行なうのだ。
出典:『エミール』新装版・世界の大思想2 ルソー(訳・平岡昇、1973年、河出書房新社) ルソー『エミール』を感じとったエッセイの終わりに
私の詩「星のささやき」をこだまさせます。(作品名をクリックしてお読みいただけます)。
「宗教」、「神」、「信仰」、これらの言葉は、人類の汗と血と善悪と美醜に垢まみれとなっていて、とても重く感じてしまいますが、自然を、星を、人を、深く愛しているとき、心はおなじ方向に響いてゆく音色を奏でていると私は想うからです。
次回からは、古代中国の諸子百家の一人『墨子』の言葉をみつめます。
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