萩原朔太郎の『恋愛名歌集』などの歌論と俳論が、『萩原朔太郎全集』(筑摩書房)の第七巻にまとめられています 。彼は
詩論『詩の原理』で、言葉の芸術である詩歌を愛する強い思いと独自の思索を書き記しましたが、短歌と俳句それぞれに焦点を絞った考察と提言も残しました。
短歌について歌壇の人々への問いかけと対話には、短歌に留まらず、歌、詩、詩歌を思い創作するうえで私が忘れずにいたいと思う詩歌の根本が語られています。
朔太郎が「短歌雑誌」に投じた
「現歌壇への公開状」で、短歌について述べていることは、詩歌全般に対して今投げかけられている言葉のように、私は感じます。
今ある短歌、俳句については詳しく知らないので憶測は述べられませんが、一人の詩人として、歌壇を「詩壇」、短歌を「現代詩」と置き換えて読んでしまうときにも、彼のこの主張は当てはまってしまうと感じます。20世紀なかば以降の著名な「現代詩」に限定しての、私の感覚ですが、当時の歌壇と「叡智の偏重に陥つてゐる」ことで似通っているのではないかと考えます。
ただ、それは朔太郎も言うように全体としての傾向で、そうでない個性的な詩があり、詩人はいますし、ここ十数年に発刊、発表された詩を私が網羅的に読めてはいませんので、決めつける資格はありません。(著名な評論家が「今の若い世代の詩は・・・」と批判するのを見ると、「誇らしげに批判するあなたは、発刊される詩集、発表される膨大な詩を見逃さず読んでいるのか、一部の傾向のつまみ食いだけで決め付けるな、読みとる者の感性が鈍くて分からないだけじゃないのか?」と私は疑問に思い、反発を感じてきました。)
朔太郎の短歌への言葉は、詩歌を愛するがゆえの反語です。だから私が共感する朔太郎の言葉、彼が裏返してしか言えなかった思いを、私に言い聞かせるために再度ひっくり返し、原文の前に記します。
詩歌は芸術だ、芸術の創作にどうしても必要なものは、門外漢の人をも動かすほどの熱と力、動機の必然性だ。
情熱、美的感情、情緒、あらゆる人間に通ずる普遍的な人間性、「愛」や「道徳」の意志だ。
情熱的な人間性、切実なる強い感情、人間的の純情、「詩人の感情」をこそ創作の動機としたい。
その動機のうえに、叡智を働かせたい。
情熱の熱を欠いた叡智だけの、浅薄な「機智」だけの言葉はいらない。
芸術が、詩歌が好きだから、私はもっと出会い、触れ、感動したい。
私は創作し、楽屋の向こうにいる詩歌を愛する人に、伝えたい。
◎以下は、朔太郎の原文です。 歌壇は叡智の偏重に陥つてゐる。
すべての芸術の本質は「叡智」と「情緒」の二部から成立する。
叡智は即ち鑑賞の智恵であって、対象の真如を把握する直感の輝きである。すべての芸術品の価値は、この叡智の深浅によって評価される。
けれども芸術品の創作には、それ以上に尚もつと必要なものがある。それは即ち創作に於ける動機の必然性である。いかに叡智のすぐれた作品でも、この創作動機の必然性を欠いた者は仕方がない。なぜならばそこには人を動かす熱と力がないから。
然らば創作の動機とは何か、それが即ち「情熱」である。高翔的な気分をもった美的感情、即ち所謂「情緒」である 。
しかして情緒は一つのヒューマニチイ(人間性)である。それはあらゆる人間に通ずる普遍的な意志を持つてゐる。何かしらそこには人々を感傷させる力がある。(「愛」や「道徳」やは情緒の最も高調的な者である故に、したがつて最も大きな普遍性をもつてゐる。)
今すべての優秀な芸術は、どれも皆「叡智」と「情緒」の両方面を具へてゐる。
たとへば芭蕉の俳句を見よ。彼の詩には驚くべき叡智の深徹さがしめされてゐるが、それと同時に、またそこには極めて情熱的なヒューマニチイが流れてゐる。ある切実なる強い感情、(略)彼の詩作の強いモチーブ(略)かくの如くすべての優秀な芸術は、この「詩人の感情」を動機とし、その上に鑑賞の叡智を働かしたものである。
然るにもし情緒のみが―即ち創作の動機のみが―必然的であつて、対象に対する鑑賞の智恵を欠くならば、それ は愚劣なる低級センチメンタリズムの芸術である。しかしかくの如き作品は、たしかに範囲の広い民衆的の普遍性をもつであらう。(民衆はいつも低級なセンチメンタルを悦ぶのである。)
所が之に反して、鑑賞の智恵のみすぐれて創作動機の必然性を欠いた―もしくはそれの稀薄な―作品は、単に芸 術品としての価値が低いのみならず、一般的の普遍性を殆んどもつて居ない。かくの如き作物は、いつもただその「 専門家」の仲間によつてのみ喝采される。なぜならばそれは常に専門家の「楽屋落ちの趣味」を満足させるから。
現在の歌壇は、たしかにこの叡智偏重の弊に陥つてゐる。(略)
今の流行の短歌が一般の民衆と交渉のないのは、それがあまりに「高遠すぎる」ためでなく、そこに肝心な情熱の 必然性を欠き、したがつてヒューマニチイの普遍性をもたないからである。
かの芭蕉の俳句の如きは、我々その道の門外漢にさへも、何かしら一味通ずる人間性の強い情熱を感じさせる。すべての「専門的な趣味」を超越して、その底に強く太く流れてゐる人間的の純情が直接に感じられる 。(略)
情熱の熱を欠いた叡智は必然浅薄な「機智」にすぎないだらう。(略)それは専門家の楽屋落ちの趣味にすぎない 。必然性のない、普遍性のない、全くくだらない独りよがりの趣味である。
出典:「現歌壇への公開状」、『萩原朔太郎全集 第七巻』(1976年、筑摩書房) (*字体のみ新字体に変え、読みやすいよう改行をふやしました。)
底本:『短歌雑誌』1922年(大正11年)5月号。
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