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歌え。歌道と物のあはれ

  本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。

 最終回は、「歌道と物のあはれ」を宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記します。

1.歌道、歌物語
 本居宣長は、『源氏物語』は物のあはれの限りをつくし描いていて、この物のあはれをおいて歌道はない、と繰り返し次のように強調します。深く心に感じること、大切なのはただそれだと。
 また宣長はこの物語のすぐれた文章が、心の感動をより深めていると述べ、その特徴を的確に次のように記しています。

◎原文
「歌道の本意をしらんとならば、此の物語をよくよくみて其のあぢはひをさとるべし。又歌道の有りさまをしらんと思ふも、此の物語の有りさまをよくよく見てさとるべし。此の物語の外に歌道なく、歌道の外に此の物語なし。歌道と此の物語とは全く其のおもむき同じ事也。されば前に此の物語の事を論弁したるは即ち歌道の論としるべし。歌よむ人の心ばへは全く此の物語の心ばへなるべき事也。」(P162-P163)
「歌は物のあはれをしるより出でき、又物の哀れは歌を見るよりしる事有り。此の物語は物のあはれをしるより書き出でて、又物のあはれは此の物語を見てしることおほかるべし。されば歌と物語と其のおもむき一つ也。」(P164)
「歌の出でくる本は物のあはれ也。その物のあはれをしるには、此の物語を見るにまさる事なし。此の物語は紫式部がしる所の物のあはれより出できて、今見る人の物の哀れは此の物語より出でくる也。されば此の物語は物のあはれをかきあつめて、よむ人に物の哀れをしらしむるより外の義なく、よむ人も物のあはれをしるより外の意なかるべし。是れ歌道の本意也。物のあはれをしるより外に物語なく、歌道なし。故に此の物語の外に歌道なき也。」(P180-P181)
「なほいはば、文章めでたければ、よむ人感ずる事まさりて物のあはれ深し。又よろづこまやかに心をつけてくはしく書ける故に、よむ人現(うつつ)に其の事を見聞くがごとく、其の人に会ふがごとし。よりていよいよ感ずる事おほく、物の哀れ深し。又大部にして事の始終をつまびらかに書き、世の事をひろく書ける故に、よむ人かれこれをかよはして物の哀れをしる事ひろく、世の風儀人情をひろくしり、事の始終をつまびらかにしるゆゑ、一きは物の哀れも深し。又すこしも虚誕(きょたん)なる事を書かず。つねに世の中にある事をなだらかにやさしく書ける故に、よむ人げにもと思ひてことに感ずる事深く、物の哀れふかし。」(P175)

 本居宣長は、歌物語では、歌が心を深く述べ一際哀れを深めている、と言います。読者として私も『源氏物語』の広大な野原に散らばり咲く花のような歌に強く惹かれます。恋の歌がおおいのは人の自然な姿だと思います。
 そのうえで宣長は、蓮の花は泥水で育てはするが、めでるのは蓮の花であるように、『源氏物語』がめでているのは多様な恋の姿それ自体ではなく、そこに咲く物の哀れの花なのだ、この物語は、戒めを目的とせずあくまで、物の哀れを深くめでようと植え育てられた、桜の花なのだ、と述べます。

◎原文
「さてその物語といふ物は、いかなる事を書きて、何のためにみる物ぞといふに、世にありとあるよき事あしき事、めづらしき事おもしろきこと、をかしき事あはれなることのさまざまを、しどけなく女もじに書きて、絵を書きまじへなどして、つれづれのなぐさめによみ、又は心のむすぼほれて、物思はしきときのまぎらはしなどにするもの也。その中に歌のおほき事は、国の風にして、心をのぶるものなれば、歌によりて、その事の心も深く聞こえ、今一きは哀れとみゆるなれば也。さていづれの物語にも、男女のなからひの事のみおほきは、集どもに恋の歌のおほきとおなじことにて、人の情(こころ)の深くかかること、恋にまさることなき故也。」(P29-P30)
「泥水をたくはふる事は蓮をうゑて花を見む料(りょう)也。泥水を賞するにはあらねど、蓮の花のいみじくいさぎよきを賞するによりて、泥水の濁れる事はすててかかはらずと答へける。此の定(じょう)也。物の哀れの花をめづる人は、恋の水の澄み濁りにはかかはるべからぬ事也。(P123)
「此の物語を戒めの方に見るは、たとへば花を見よとて植ゑおきたる桜の花を切りて薪(たきぎ)にするがことし。此のたとへをもて心得べし。薪は日用の物にてなくてかなはぬ物なれば、薪をあししとにくむにはあらねども、薪にすまじき木をそれにしたるがにくき也。薪にすべき木は外にいくらもよき木有るべし。桜を切らずとも薪に事欠く事はあらじ。桜はもと花を見よとて植ゑおきたれば、植ゑたる人の心にもそむくべし。又みだりに切りて薪とするは心なき事ならずや。桜はただいつ迄も物のあはれの花をめでむこそは本意ならめ。」(P183)

2.古歌と詩歌
 以上のような考えに立って宣長は、古歌の良いところを学べと言います。月花をめづる心、深く感じる心は、鈍く衰えてしまっていると。この指摘は今なお当てはまると私は思います。
 ただ「もしおのが思ふままにくだれる世の下賎の情にてよまば、」良い歌はできない、「情は古歌にならひて、其の内にて又同じ事を新らしくとりなしてよめ」と言っている箇所は、その言葉のまま受け取ると古の貴族社会に依存し過ぎで真似事の歌しかできないと考えます。(「桜花を雲」「紅葉を錦」と感じとれた古の人の情(こころ)の深さに学べとの意なら共感できますが。)
 以前ブログ「歌論と詩歌」
でとりあげた藤原定家『近代秀歌』の言葉、「ことばはふるきを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて」のほうこそ、良い歌を生みたいなら望ましいあり方ではないかと、私は思います。

◎原文
「古へと今と月花をめづる心をくらべて見よ。今の人はいかほど風雅を好む人とても、むかしの歌又は物語などのやうに深くめづる事なし。古への歌や物語を見るに、月花をめづる心の深き事、それにつけて思ふ事のすぢを感じてものの哀れをしれる事など、今とは雲泥のたがひ也。今の人は一わたりこそ花はおもしろし、月は哀れ也とも見るべけれ、深く心にそむるほどの事はさらになし。」(P168)
「歌の本を論ずるときはまことにさる事なれども、よき歌をよまむとするときは、詞(ことば)も意(こころ)もかならずよきをえらばではかなはぬ事也。よきをえらばむとするときは、必ず古への歌のよきをまなばではかなはぬ事なり。古への歌を学ばんとすれば、かの中以上の風儀人情をまなばではかなはぬ事也。もしおのが思ふままにくだれる世の下賎の情にてよまば、よき歌は出できがたかるべし。(P172-P173)
「かの桜花を雲かと思ひ、紅葉ばを錦かと見るやうの情は古歌にならひて、其の内にて又同じ事を新らしくとりなしてよめと也。」(P177)

 以上をふまえて最後に、私が詩の創作でとても大切だと考えていることを記します。
プロレタリア詩人・中野重治の詩「歌」は、私の心に強く響き、深く考えさせられる詩でした。
 冒頭の3連を引用します。
「おまえは歌うな/おまえは赤まんまの花やとんぽの羽根を歌うな/風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな/(以下略)」

 この言葉に対して、私の心は反歌を歌いだします。
黙っていられず、次のように、私は歌わずにはいられません。

「歌うなと言うな。自分にとってとても大切なものなら押し殺さず、困難があっても歌え」。
「赤まんまの花やとんぽの羽、風のささやきや女の髪の毛の匂いを大切に思っているなら、その心を歌え」。
「ほんとうに大切なものなら、歌わずにいられないはずだ。詩人にできるのはそれだけだ。」
「だからどんな障害があっても、抑圧・弾圧を受けても、詩人ならほんとうに大切なものを歌え。」
「良い時代、良い社会なんてない、相対的なものだ。そんなものに潰されず、歌い続けろ。死ぬまで決してやめるな。」
「愛の詩が陳腐な言い古されたテーマだと歌うのをやめるのは、生きるのをやめ詩を捨ててしまうこと、詩を捨てるな。陳腐なテーマを初めて生きる新鮮な心のままに歌え。」
「ひとりひとりが初めて一回限りの生で、愛さずにいられないままに愛の詩を、繰り返し何度でも何度でも、生き、歌え。」
「傍観者には単調な繰り返しでも、それを生きるものはただ一度限りの真実を見つけるのだから、かけがえのない、おのれの愛にこだわり、歌え。」

 この思いのままに私は、とても大切なものを、かけがえのないものを、大きな声でわめき散らすのではなく、歌いたいと思います。「あいのうた(た) うた」

 これまで本居宣長と『源氏物語』を見つめ直してきました。
 彼は歌についても物の哀れを『排蘆小船(あしわけおぶね)』『石上私淑言(いそのかみささめごと)』『新古今集美濃の家づと(みののいえづと)』で述べています。これらについては別の機会に考えてみたいと思います。


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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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