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歌物語と善悪と信仰

 本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。
 6回目の今回は、「歌物語と善悪と信仰」についての宣長の考えを起点に、私が感じ思うことを記します。

 本居宣長は『源氏物語』を明鏡と呼び、人間と人間が生きる社会を有りのまま映し出している、と述べました。その言葉は、彼自身が人間の生き様を捉えているという自負の礎のうえでこそ成り立つものです。
 たとえば、『源氏物語』の時代の人々が病を加持祈祷でふり払おうとしていたことについて、物語の時代だけでなく宣長がいる時代もまた神仏の力にすがっているし我国でも他国でも常の事だ、と述べていますが、人間の素顔を有りのまま捉えた言葉だと言えます。

◎原文
「病といへば物の怪(け)といひ、さならでもひたすら加持祈祷(かじきとう)をのみする事、是れ又其の比(ころ)の風儀人情也。其の比のみにもあらず、今とても又神仏の力をあふぐ事世のつね也。我国のみにもあらず人の国も又しかり。」(P157)

 また宣長は、『源氏物語』が宮廷社会の上々の人々の事のみ描いているのは、作者と物語の読者が、つねに見る事・聞く事・思う事でないと心に感じないからだとし、「万(よろず)の事わが身に引き当てて見るときは、ことに物の哀れ深き物也。」と物語の根本をも述べています。文学、物語は感動なのだから、良い作品は、作者の心の感動から生まれ、読者の心に重なり揺れ動きだす感動の波です。切実に感じられるか、心にどこまで近いか、が何より大切だと私は思います。

◎原文
「其のつねに見る事・聞く事・思ふ事の筋にあらざれば、感ずる事薄し。万(よろず)の事わが身に引き当てて見るときは、ことに物の哀れ深き物也。されば物語は上々の人の見るものなれば、上々の事をもはら書きて、心に感じやすからしめむためなり。たとへば人の国の事をいふよりはわが国の事をいふは、聞くに耳近く、昔の事をいふよりは今の事をいふは、聞くに耳近きがごとく、つねに目に近く耳に近くふるる事の筋は、感ずる事こよなし。此の物語のみにもあらず、すべての物語みな同じ事也。」(P161)

 本居宣長は、物語は儒仏のように善悪を教え諭すことを目的としない、「ただよしあしとする所は、人情にかなふとかなはぬとのわかちなり。」と述べます。さらに、「歌物語は、(略)物の心・事の心を知りて感ずるをよき事として、其の事の善悪邪正はすててかかはらず。とにかくその感ずるところを物の哀れ知るといひて、いみじき事にはする也。」
 この文学と宗教という主題を、日本、儒仏を離れて少し考えて見ます。
 キリスト教プロテスタント宣教師のジョン・バニヤンの『天路歴程(てんろれきてい)』は自ら信じる信仰を正義とし他を悪として退ける信仰の物語です。
 ジョン・ミルトンの『失楽園』もまた、旧約聖書のエデンの園をモチーフに天使と悪魔が激しい殺し合いを繰りひろげます。その長大な詩篇を盲目で完成させたミルトンを詩人として私は畏敬しますが、この詩篇は読者に信仰を、信じることを突きつけている宣教の書に限りなく近いと感じます。
 一方でドストエフススキーは中期後期の小説『地下室の手記』、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』(最晩年の宗教短編を除いて)で、善悪正邪が混沌のうちに入り乱れた人間と人間の心を描ききります。
 宣長のいう、「悪しく邪(よこしま)なる事にても感ずる事ある也。是れは悪しき事なれば感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也。」そのままに、「其の事の善悪邪正はすててかかはらず。とにかくその感ずるところを物の哀れ知るといひて、いみじき事にはする也。」
 彼の小説には、善悪邪正と聖と俗が入り乱れるままに描かれているからこそ、宗教、宗派、国家の束縛からすりぬける波となり読む人の心に感動の波動を揺り起こすのだと、私は思います。(ドストエフスキーが小説で描くロシア正教を敬虔に信仰する人の姿を私個人は好きです)。

◎原文
「まづ儒仏は人を教へみちびく道なれば、人情にたがひて、きびしくいましむる事もまじりて、人の情(こころ)のままにおこなふ事をば悪とし、情をおさへてつとむる事を善とする事多し。物語はさやうの教誡の書にあらねば、儒仏にいふ善悪はあづからぬ事にて、ただよしあしとする所は、人情にかなふとかなはぬとのわかちなり。」(P63)
「その感ずるところの事に善悪邪正のかはりはあれども、感ずる心は自然と、しのびぬところより出づる物なれば、わが心ながらわが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪(よこしま)なる事にても感ずる事ある也。是れは悪しき事なれば感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也。故に尋常の儒仏の道は、そのあしき事には感ずるをいましめて、あしき方に感ぜぬやうに教ふる也。歌物語は、その事にあたりて、物の心・事の心を知りて感ずるをよき事として、其の事の善悪邪正はすててかかはらず。とにかくその感ずるところを物の哀れ知るといひて、いみじき事にはする也。」(P97)

 このように述べつつ、宣長は、仏の道を、「此の道につきては物のあはれ深き事多し。」と捉えます。
『源氏物語』の宇治十帖は、仏道への誘いの書ではないけれども、仏道と物のあはれが深くにじみあい、波紋を織りなしています。それは紫式部の心の光と闇の絵模様であり、深くあわれを感じる心から紡ぎだされた言葉だからだと私は思います。
 文学と宗教、信仰は、人の心の奥底で深く結びつき切り離せはしないものだと、私は思っています。

◎原文
「されどそれはもと仏の深く物の哀れをしれる御心より、此の世の恩愛につながれて生死をはなるる事あたはざるを、哀れとおぼすよりの事なれば、しばらく此の世の物の哀れはしらぬものになりても、実は深く物の哀れをしる也。」(P103)
「又仏道は物の哀れをすつる道にして、返りて物の哀れの有る事おほし。定めなきうき世のありさまを観じ、しかるべき人に後れ、身の歎きにあたりて、盛りの姿を墨染めの衣にやつし、世ばなれたる山水に心をすましなど、其の方につきて物の哀れふかき事又多し。故に巻巻に仏の道の事をいへる事おほく、殊に物の哀れしりてよき人は、ややもすれば此の世をいとひて、世を遁(の)がるる望みある事を書けり。これ此の世のはかなき事心にまかせず、うき事を思ひしる故なれば、すなはち物の哀れをしる也。」(P104)
「仏の道は深く人情を感動せしむる物にて、智者も愚者も此の道には心を傾(かたぶ)くるもの也。ことにわが国は、古へより世の憂き事あるときは、必ず形(かたち)をやつし、此の道に入る事、世間普通の風儀人情也。さるから此の道につきては物のあはれ深き事多し。この故に仏道の事多く書ける也。」(P154)

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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