本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、
『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。
5回目の今回は、この著書での宣長自身の言葉を、
日中戦争、太平洋戦争時に喧伝された本居宣長の姿と照らし合わせて、その虚実を見つめ、戦争と文学者について考えたいと思います。
日中戦争、太平洋戦争時の本居宣長の虚像 日中戦争、太平洋戦争の時代の文学者について以前ブログで考えました
(高村光太郎 胸中から迸り出る言葉)。そこで紹介した次のホームページ
「鳥飼行博研究室 戦争と文学:文学者の戦争」に戦時中の本居宣長像が記されています。
本居宣長はその時代、愛国心を高めるために虚像を喧伝され祭り上げられたのではないか、実像だったのか、その資料と彼自身の言葉から考えます。
◎資料引用「1942年11月20日に発表された
愛国百人一首に、本居宣長「鈴屋集」からは、
「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。
1944年10月の
神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島,大和、朝日、山桜が使用された。源田實は、命名者であるが、当然「愛国百人一首」を読んでいたか,それを知っていた海軍軍人のアドバイスを得たのであろう。」
本居宣長は『紫文要領』をまとめた後も生涯『源氏物語』を愛読し講義し
『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』をまとめ上げましたが、彼の言葉、考え方はその間変っていません。
以下の言葉は、
『古事記伝』で古の我国の人の心を探し求め続けた本居宣長自身が見出だし、抱き続けたものです。
宣長は我国の人のまことのこころは「女童のごとく」だと述べます。さらに続けて、
「
武士(もののふ)の戦場におきていさぎよく討死にしたる事其の時のまことの心のうちをつくろはず有りのままに書くときは、
故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命も少しは惜しかるべし。是れみな人情の必ずまぬがれぬ所なれば、たれとてもその情(こころ)はおこるべし。
其の情のなきは岩木に劣れり。」 私は戦時に宣長を祭り上げた軍部は、彼を曲解し虚像を拵え政治的な戦意高揚に利用したのだと考えます。軍部の上層部は、大陸への侵略を始めた時から戦局が悪化した時まで、岩木に劣っていた。それだけでなく若者たちを巻き込み、岩木に劣る心になれと命じ、特攻を命じたのだと、私は思います。
本居宣長が生涯抱き彼がよいものとして捉えた「我国の人のまことのこころ」は、軍人の精神とは対極のものです。宣長は、次のように言い切っています。
「君のため国のために命を棄つるなどやうの事」は、「まことの有りのままの情をばかくして、つくろひたしなみたる所」であり、「賢げにする所は情を飾れる物にて本然の情にはあらず。」。 『源氏物語』を愛する本居宣長は、特攻隊の対極にいます。
何より偽りを嫌う宣長は、青年期から死ぬまで、軍人の繕い飾った賢しらな虚勢を、我が国の人の真の心ではないと考えていたこと、書き残していることを忘れてはならないと思います。
飽くなき思いで人の心を見つめ人を愛する本当の文学者なら、戦争を賛美し加担できるような、偽りの、岩木に劣る心は持ちえないと、宣長に共感しつつ私は考えています。
◎原文「又武士(もののふ)の戦場におきていさぎよく討死にしたる事を物に書くとき、其のしわざを書きてはいかにも勇者と聞こえていみじかるべし。其の時のまことの心のうちをつくろはず有りのままに書くときは、故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命も少しは惜しかるべし。是れみな人情の必ずまぬがれぬ所なれば、たれとてもその情(こころ)はおこるべし。其の情のなきは岩木に劣れり。それを有りのままに書きあらはすときは、女童の如く未練に愚かなる所多き也。唐の書は、そのまことの有りのままの情をばかくして、つくろひたしなみたる所をいへば、君のため国のために命を棄つるなどやうの事ばかりを書けるもの也。すべて人の情の自然(じねん)のまことの有りのままなる所は、はなはだ愚かなる物也。それを努めて直し飾りつくろひて、賢げにする所は情を飾れる物にて本然の情にはあらず。」(P156)
- 関連記事
-
- https://blog.ainoutanoehon.jp/tb.php/87-b5fe1e3a
トラックバック
コメントの投稿