本居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、
『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫本掲載頁)しています。
4回目の今回は、
「人の実の心」を宣長が『源氏物語』を通してどのように捉えていたかを考えます。
心の内のまことの姿は歌物語に 本居宣長は異国の書、異朝の書、唐の書と対比させるかたちで、
我国の歌と物語の本質的な特徴は何かと考えます。前者に対する批評は厳しく狭く偏った見方といえますが、それはこの論をすすめるうえで、後者を浮き上がらせ際立たせるためだったとも言えます。彼があくまでこの著書で述べようとしたのは、『源氏物語』に最も優れた姿で現れでた、我国の歌物語の本質と特徴だからです。
本居宣長は
「心の内のまことを有りのままに」表していることが、それだと言います。
有りのままに書き出された心の内のまことの姿を、彼は『源氏物語』に見出しました。その姿はこうだと、宣長は語ります。
「物はかなくしどけなげにて、すこしもさかしだちかしこげなる事はなく、おろかに未練(みれん)なるもの。
だから本当は誰の心も「女童のごとく」はかなくつたない。
「いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。」 宣長は、このように人の心を見据え、男の、大人の心を有りのままに暴きさらします。
彼のこの言葉から私は、まことを見つめ偽りは言わない、という強い意志を感じます。そして、私も人の「心の内のまこと」の有りのままの姿は、彼が言うように、男も女も、童のごとくだと思っています。
◎原文「まづ異国の書は、何の書もとかく人の善悪をきびしく論弁して、物の道理をさかしくいひ、人ごとにわれがしこにいひなし、風雅の詩文に至りても、とかく我国の歌とはちがひて、人の情(こころ)をばあらはさず、何となくさかしくかしこげに見ゆる也。わが国の物語は、物はかなくしどけなげにて、すこしもさかしだちかしこげなる事はなく、とかくに人情の有りのままを、こまかに書きいだせり。すべて人の心といふものは、実情はいかなる人にても、おろかに未練(みれん)なるもの也。それを隠せばこそかしこげには見ゆれ、まことの心の内をさぐり見れば、たれもたれも児女子の如くはかなきもの也。異朝の書はそれを隠して、おもてむきうはべのかしこげなるところを書きあらはし、ここの物語は、その心の内のまことを有りのままにいへる故に、はかなくつたなく見ゆる也。」(P50-P51 )
「おほかた人の実(まこと)の情(こころ)といふ物は、女童のごとく未練に愚かなる物也。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたる物也。実の心の底をさぐりて見れば、いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。それを恥ぢてつつむとつつまぬとの違ひめばかり也。」(P155)
本居宣長は、歌物語こそが「人の実の心を細やかにくわしく書き表して」物の哀れを伝えるものであり、『源氏物語』は特に優れた心の鏡だと言います。この歌物語に浮かび上がる姿が「人の実の心」だと述べます。その姿は、
「女童のごとくはかなく未練に愚かなる事多し。
ことによき人は物のあはれをしるゆゑに、いとど人情は深くしてしのびがたき事多き故に、いよいよ心弱く愚かに聞こゆる事多し。」というものです。
私は、宣長が、人の心のまことの姿を、『源氏物語』に見つめているまなざしは、曇っていない、鏡に浮かぶ姿そのものを語っていると思います。
◎原文「ここの歌物語は、人の実の心の底をあらはに書きあらはして、物の哀れを見せたる物也。人情のこまやかなる所を、隈(くま)なくくはしく書きあらはせる事歌物語にしくはなし。其の中にも此の物語はすぐれてこまやかにして、明鏡をかけて形を照らし見るが如くに、人情のくはしき所を書きあらはせり。故に女童のごとくはかなく未練に愚かなる事多し。
ことによき人は物のあはれをしるゆゑに、いとど人情は深くしてしのびがたき事多き故に、いよいよ心弱く愚かに聞こゆる事多しと知るべし。」(P155)
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