今回からは、
自由律俳句を己の人生に重ねたもう一人の強烈な個性の俳人、
種田山頭火(たねだ・さんとうか。明治十五年・1882~年昭和十五年・1940年、山口県生まれ)を見つめます。
まず最初に、
山頭火が俳句について表明した言葉を引用し、私が想うことを記します。
以下、
出典からの引用です。
「(前略)うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。(中略)うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。」(昭和九年の秋、其中庵にて 山頭火)(引用終わり)
山頭火の
「自分の真実をうたふ」と言う言葉は詩歌の本質そのものだと私は深く共感します。
「普遍的な真理」を求めつつこの生においては得られない人間にも、「自分の」、「真実を」、「うたふ」ことは、嘘偽りなくできます。
「自分の」を潜り抜け、そこからのものでなければ、本当ではありません。
また、俳句を詠んだ山頭火が「うたふ」という言葉を選んでいたことも、私にはとても嬉しいことです。詩歌、古代歌謡も和歌も短歌も俳句も詩も根源からの本質は「うたう」言葉であることだからです。
彼が「よろこび」といっていることにも心打たれます。本物の詩歌人は「うたふこと」が苦しく悲しく痛くてもそこに「よろこび」を感じる人、そうせざるをえない人です。
彼が続ける言葉。「うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。」とてもあたありまえのことですが、忘れられがちです。少しばかりの時間と期間に書いて本にして刊行して、それから書かなくなった人を私は詩人だと思いません。本を出していなくても、無名であっても、詩を書いている人、詩歌をうたっている人が、詩人です。書かなくなった人、書けなくなった人、書かずにいられる人は、過去詩人だったにしてももう、詩人ではないと私は自戒もこめて考えています。
最後に彼が、「私は詩として私自身を表現」と、「詩」という言葉を選んでいることに、心の広さを感じて私は共感します。「俳句」という狭いジャンルに閉じこもる偏狭な意識が微塵もありません。大きく、詩、詩歌をうたうんだと、心を開放して宣言しています。
「俳句」「短歌」「現代詩」の垣根は、商業的な便益のためと、俳壇、歌壇、詩壇という狭い特権意識を確保するための、拵え物に過ぎず、時間とともに跡形もなく消え去るものに過ぎません。
「うたふ」ことだけが、詩歌人の、「つとめ」天命、天職であり、「ねがひ」です。
この言葉を言い切った種田山頭火は、詩歌人そのものだったと、私は深く共感し、励まされる想いがしました。、
今回は、彼の自由律俳句を同じ出典から、放浪に生きた種田山頭火の一句を。
分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火
次回からは、種田山頭火の句そのものを感じとります。
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