自由律俳句を己の人生に重ねた強烈な個性の俳人、
種田山頭火(たねだ・さんとうか。明治十五年・1882~年昭和十五年・1940年、山口県生まれ)を前回から見つめています。
以下、出典から私の心に特に響いた句を選び、似通うものを感じた句にわけました。「☆放浪をうたう(一)(二)(三)」、「♪音楽的な、調べの歌(一)(二)(三)」、「★戦時の句」の7回としました。
最終の今回は「★戦時の句」です。一句一句について、◎印の後に私の詩想を記していきます。
種田山頭火の没年は昭和十五年・1940年、太平洋戦争勃発の前年、日中戦争の最中です。放浪の旅に生きた彼が、晩年に、戦時、戦争に翻弄される人の姿を凝視し、うたっていたことを知り、私は感銘を受けました。
ここに、人間の心をうたう本物の詩人の姿を見ます。
★ 戦時の句 街頭所見
月のあかるさはどこを爆撃してゐることか
ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く◎一句目には、爆撃の愚かさと爆撃されている人を想う心、嘆きを私は感じます。
二句目は、当時、戦地へと出征する兵士を見送る際には「万歳」を唱えることを強制されていたなかで、禁じられていた表現に踏み込んでいます。戦争は死にに征くことだと。真実を表現しようとする作者の強い意思を私は感じます。
戦死者の家
ひつそりとして八ツ手花咲く◎「お国のために死ぬことは美徳で喜ぶべきこと」と情を曲げ隠して演じることを強制されていた時代にも、死の悲しみを静かに想う鎮魂の句です。
遺骨を迎ふ
もくもくとしてしぐるる白い函をまへに
山裾あたたかなここにうづめます◎一句目は、戦地で殺され骨となあって故郷に戻ってきた戦死者、白い函の遺骨をまえに、強制された美徳を演じることを拒み、「しぐるる」、言葉を失い涙を流し悲しんでいます。本当の気持ち、真実のうたふだけが詩歌だからです。
二句目は、死者への鎮魂の、弔いの言葉そのものです。遺骨を迎えた肉親は誰もがこのように涙し、言いたかったけれども、それさえ奪っていた社会の歪みを思います。
遺骨を抱いて帰郷する父親
ぽろぽろしたたる汗がましろな函に
お骨声なく水のうへをゆく◎悲しいうたです。戦死者はもう何も語れません。その無念の深さが染み出してくるような句です。
みんな出て征く山の青さのいよいよ青く◎村の男たちは狩り出されてゆき、戻ってきませんでした。二度と戻ってこれないだろうと思いつつ、戦地へ行くことを強制されました。山頭火の死へ送りこまれる「みんな」への眼差しを感じます。
歓送
これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗
ぢつと瞳が瞳に喰ひ入る瞳◎戦地へと征く兵士を見送る最後の別れの時にさえ、肉親も万歳と唱えることを強制されていました。
一句目は、殺し合いの場へ死ににいく人間の思いの真実を、二句目は、愛し合う肉親を引き離し奪った最後の別れの時の真実を、とても痛く、凝縮させています。悲しみが心に刻み込まれてくるような、とても強く迫ってくる句です。
戦傷兵士
足は手は支那に残してふたたび日本に◎戦争の残酷を隠さず見据え、言葉にした山頭火の強い意思を感じます。あからさまな「反戦」の文字を叫ばなくても、ひとりひとりの心、思いの真実をまっすぐ見つめるとき、愛する者が殺し合いの場に連れ去られ苦しみ殺されることを喜ぶ者はいません。
その当たり前のことさえ奪い行えなくさせてしまうのは、国家の、社会の。為政者の歪みと悪です。山頭火は心の真実を決して曲げずに句にすることを貫くことで、その間違いと醜さを照らし出しました。
文学、詩歌だからこそ持ちえ伝えられるもの、暴力ではなく、人間から人間の心に伝わり揺らし波立たせるものが、ここにあることを、種田山頭火は教えてくれます。
出典『現代句集 現代日本文学大系95』(1973年、筑摩書房) 次回は、種田山頭火が昭和十五年・1940年に亡くなった後、昭和二十年・1945年まで続いた戦争に、一兵卒として召集され、戦地で自由律俳句を創った俳人・山田句塔を見つめます。
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詩集 こころうた こころ絵ほん イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
こだまのこだま 動画
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