敬愛する歌人、
式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、
赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
今回からは、論文
「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。 和歌の後にある作品番号は
『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。
◎出典からの引用1 一
ある場所に動かずにじっとしている時、人は空間よりも時間を意識する。式子内親王の歌から浮かびあがる作者像は、あたかも固定したカメラのレンズのように、目の前を運動してゆく自然を眺め、四季の移り変わりを追う人である。この作者は、つねに「今」を視点として周囲の動きを捉える。
いまさくら咲きぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな 210(新古今・春上 八三)
<いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>
新古今時代において、これほど尖鋭に「今」を意識した歌人があったであろうか。この歌における「今」とは桜が咲いたと直覚した瞬間である。時満ちて、この刹那に世界がはじけ、うす曇りの中に春の色が広がり、春の匂いが満ちてゆく。すぐ前ともすぐ後とも違う微妙な一瞬である。「いま咲きぬ」の「ぬ」は、現在において自然推移的な状態が確実に実現したことを表わしており、「見えて」はそれが視覚的に受像されたことを示している。しかし、それに先立って「世のけしき」が変ったことを気分として身体が感じとり、それを目でもって確認しようとしたのではなかろうか。(略)
この歌の場合、「うす曇り春にかすめる」の「うす曇り」も花の予感を孕んで「春にかすめる」に先行する。両者は同時現象ではなく、その間に微妙な時の経過を表わしている。(略)
「いま桜」という言葉が生々とした印象を与えるのは、そこに桜が咲いた今を直感する作者の鋭い時間意識が働いているからであろう。それはしかし、いつも眺めつづけ、待ちつづけて来た目だけが捉えることのできる瞬間であって、この意味では作者の主体的なあり方と密接に結びついた「今」である。桜の開花を告げる自然的時間と内面的持続の時間が合致した瞬間、どんより曇った世界がいっせいに気化して春の色に霞み渡ると同時に、過去の流れを引きずった現在の重い時間からも解放される。「うす曇り」と「春にかすめる」は心理的にも同次元ではない。この瞬間に心は広々と限りなく広がってゆく。(略)(出典引用1終わり)
☆この刹那に世界がはじけ 赤羽淑がみずみずしい感受性で内親王の歌の清流を手のひらですくいあげたような、とても美しい文章が心に沁みとおります。
「この歌における「今」とは桜が咲いたと直覚した瞬間である。時満ちて、この刹那に世界がはじけ、うす曇りの中に春の色が広がり、春の匂いが満ちてゆく。すぐ前ともすぐ後とも違う微妙な一瞬である。」
詩歌は、瞬間、刹那、一瞬を、とらえ、読みとるたびに、蘇らせ、息づかせ、咲かせてくれます。この歌を詠むたびに、その瞬間、桜が、心に、花開き、染めあげてくれます。
次の認識も心にとても新鮮です。
「桜が咲いた今を直感する作者の鋭い時間意識」は、「いつも眺めつづけ、待ちつづけて来た目だけが捉えることのできる瞬間」、「作者の主体的なあり方と密接に結びついた「今」である。」
「桜の開花を告げる自然的時間と内面的持続の時間が合致した瞬間」
この瞬間を感じとることには、静かだけれども確かな感動であり、生きていることを感じること、それが詩歌のゆたかさ、美しさ、喜びだと、私は思います。
◎出典からの引用2 花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る 219(新古今・春下 一四九)
<はなはちり そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>
この歌は過ぎ去ったあとの時間を表現している。(略)花が散ったあとの「むなしき空」には花の残像が残っており、そのイメージと現実に降っている春雨の印象とが交り合った空間を想像させる。(略)「むなしき空」は花が散ってしまったあとの空の意で、たんなる虚空ではない。(略)式子内親王の歌は眼前を捉えている(略)。
式子内親王の歌は、大体において、現実の「今」を核として結晶するものが多く、そこから地味でしかも実感に裏づけられた歌風が生じてくる。(出典引用2終わり)
☆花の残像 赤羽淑がこの歌から感受する詩の時空はとても美しく、「花が散ったあとの「むなしき空」には花の残像が残っており、そのイメージと現実に降っている春雨の印象とが交り合った空間を想像させる。」、花の残像のイメ-ジと降りかかる春雨の印象の交り合い、過去と現在の交錯、とても美しい情景が目の前に溶けだします。詩は時空を孕んでいると、伝えてくれます。
続く認識にも私は深く共感します。内親王の歌は、「現実の「今」を核として結晶する」、「地味でしかも実感に裏づけられた歌風」。
私が詩歌を創作するとき、その核に現実の「今」の結晶、「今」の感動だけを、歌の種とします。それこそが、歌のいのちだと思っています。「実感」という言葉のもつ、「日常性につながる」という弱い意味合いではなく、「確かに感じた、強く心、感受性に刻まれた」という意味合いの「実感」は歌の種です。それがない歌には生命力、魂が欠けています。内親王の歌には、その強く確かな「今」があり、そこを起点に、過去にも、未来にも、ゆたかに時間を孕む詩の世界が紡ぎ出されていると、私も感じます。
出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。 次回も、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想です。
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