敬愛する歌人、
式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、
赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。
今回は前回に続き、論文
「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。
◎出典からの引用1 二
内親王の歌には身を置く場所または住処についての意識が強く反映している。冒頭にあげた
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重もとぢよ蔦の紅葉 (前出)
<あきこそあれ ひとはたずねぬ まつのとを いくえもとじよ つたのもみじば>
の「松の戸」は、簡潔にその住まいの様子を描き出しているが、他にも
山深くやがて閉ぢにし松の戸にただ有明の月やもりけん (A百首 九二)
<やまふかく やがてとじにし まつのとに ただありあけの つきやもりけん>
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水 (前出)
<やまふかみ はるともしらぬ まつのとに たえだえかかる ゆきのたまみず>
の二首がみられ、自分の住処を「松の戸」として意識していたことが知られる。(略)
この「松の戸」は新古今以後、新勅撰に四例と増え新しい歌語として好み詠まれるようになるのであるが、その式子内親王及び中古・中世和歌での用例を検討して、久保田淳氏は、
白楽天の「陵園妾のイメージがあって、内親王の「山深み」の歌にもそれは揺曳していると指摘された(『全評釈』)」。「陵園妾」とは、御陵のもり役として幽閉された宮女を憐れんだ詩である。(略)
これらの句には、内親王の境涯に通ずるところがあって、内親王自身も深い共感をもって読んでいたであろうことは十分に納得できる。たとえば自分の意志からではなく神に仕えることを余儀なくされた境涯や、又じっと内に籠っていて、四季の移り変わりや周囲の動静を、わずかに聴覚や視覚などの感性を敏感にすることによって捉える生活にも共通性が認められるのであって、「松の戸」の典拠としてのみならず、心情的にも内親王の世界に重なる部分が多い。(略)(出典引用1終わり)
☆ 幽閉された宮女を憐れんだ詩への共感赤羽淑は、式子内親王の歌から内親王が抱く家のイメージを探します。そして新古今時代にはまだ新しい歌語であった「松の戸」に注目し彼女の心に迫ります。白楽天の「陵園妾」を内親王がどのように読み感じたろうかと思いを馳せる文章には、赤羽淑自身の共感が重なって感じられて、白楽天、幽閉された宮女、式子内親王、赤羽淑、空間と時を越えた人の心の響きあいを生み出すうる文学のゆたかさを、私は感じずにはいられません。
◎出典からの引用2 それとともに内親王の「松の戸」には、和歌特有の表現効果が認められる・同じように簡素な山家のたたずまいを意識しながら、「桜戸」でもなく、「柴の戸」でもなく「松の戸」でなければならないのは、「松」に「待つ」が掛けられていることである。(略)
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重もとぢよ蔦の紅葉 (前出)
<あきこそあれ ひとはたずねぬ まつのとを いくえもとじよ つたのもみじば>
この歌において「幾重もとぢよ」といいながらはるかなものの目を意識していたのではなかったかということは前に指摘した。と同時に「人は尋ねぬ」というところに人の訪れを意識し、または待ち望む心がかくされているのではなかろうか。その心を拒否するかのように、「幾重もとぢよ蔦の紅葉」」というのではなかろうか。ここにも矛盾し、背反する心が同時に認められる。「松の戸」は、閉ざすものであると同時に、待つ人には開かれるはずのものであり、ここで又、内親王の世界の両義性、背反性を指摘することができるのである。(出典引用2終わり)
☆ 「松の戸」でなければならないのは ここで語られている和歌特有の表現効果、掛け詞について私は、この歌のように「待つ」が掛けられた、「松の戸」でなければならない、と感じられる、自然なものであるなら、日本語の詩歌を美しく、豊かにする、優れた、受け継いでいきたい表現方法だと考えています。
和歌の魅力を高めている、日本語の短い同音の語彙の特性を活かしている修辞です。機智をひけらかすとダジャレに堕してしまいますが。アクセント、抑揚、強弱が乏しく平板であり、押韻もか弱い音調である日本語で、音楽性と意味とイメージを美しく交錯させることができます。
「ま つ」、「MA TU」の2音(2母音+2子音)で、「松」と「待つ」という意味とイメージが想起されることで、単純な2音でなくなり、しゃぼん玉の表面にゆれる光のゆらぎように、音のふるえゆらぎに幻のこだま、ハーモニーが生まれ、心は幻聴の美を聴きとることができます。日本語の詩歌をゆたかにする長所として、私は大切に活かし奏でたいと思っています。
ここで赤羽淑は、掛け詞の「松の戸」という歌語によって、「背反する心が同時に認められる」ことを探りあてています。その通りだと私は思います。文学、詩歌は、論理的に整理すると壊れてしまう矛盾、相克、混沌を、心のありようのままに、伝え、感じとることができる芸術であり、それが命でもあるからです。
出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。
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