赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の著書
『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)は詩歌の本質をとらえていると感じる私の愛読書です。
赤羽名誉教授は定家と同時代の私が敬愛する歌人、
式子内親王(しょくしないしんのう)の和歌についても歌人の魂に迫る論文を執筆されていらっしゃり、「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」についての私の詩想は次のエッセイに既に記しました。
赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。 赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。 今回からは、式子内親王の詩魂をさらに深く感じとるため、赤羽淑名誉教授の二つの視点からの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を読みとり、呼び覚まされた私の詩想を記していきたいと思います。
まず数回にわたり、論文
「式子内親王における詩的空間」を感じとります。
最初に、このエッセイを執筆しながら感じていたことを記しますと、赤羽名誉教授が式子内親王の歌を慈しみ感じとる心を文章に感じながら、敬愛する歌人の歌を読み返す時間は、文学のゆたかさにつつまれ、幸せと喜びを感じました。
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。
◎出典からの引用1 一
秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重もとぢよ蔦の紅葉 (新勅撰秋下 三四五)
<あきこそあれ ひとはたずねぬ まつのとを いくえもとじよ つたのもみじば>
(略)「秋こそあれ」というのは、(略)「秋こそ尋ね来たれ」という意であろう。
(略)式子内親王の歌には際立った特性が認められるのである。それは、「幾重もとぢよ蔦の紅葉」と強い命令形で言いきる調子に表わされている。たしかに内親王の世界は幾重にも閉ざされた彼方にある。内親王自身がわれとわが身をそのような場所に置いている。われわれは内親王の世界を、まずこのように閉ざされ、隔絶した空間として受け取る。(略)(出典引用1終わり)
☆ 強い命令形、閉ざされ、隔絶した空間 赤羽淑は論文の冒頭に引用する歌を通して、まず式子内親王の「際立った特性」を、「強い命令形で言いきる調子に表わされている。」と示します。この歌でも「秋こそあれ」「幾重もとぢよ」という語調の切迫さがささめき響いています。(この論文の後半でこの個性は歌人の本質に根ざすものとして再びとりあげられます。)
式子内親王の、愛唱されている歌、私の好きな歌のおおくに、この個性が響いていて、私はこの歌人を、いのちと魂を、静かに絶唱する人、だから好きなのだと思います。
歌は、孤独、閉ざされ、隔絶した空間を凝視し、その空間で息することから生まれてきます。このことは生まれながらの歌人であることの証だと私は思います。孤独の底なしの深さが、式子内親王の歌の魅力があふれ出してくる源です。
◎出典からの引用2 ところで式子内親王はそのような存在としての自己を意識し、そのような存在として彼女を見つめている他者の目をも意識していたのではなかったろうか。文治五年以前ころに作られたA百首にすでにそう思わせるものがある。
跡絶えて幾重も霞め深く我世を宇治山の奥の麓に(A百首 六)
<あとたえて いくえもかすめ ふかくわが よをうじやまの おくのふもとに>
たたきつる水鶏の音も深にけり月のみ閉づる苔のとぼそに (同 二一)
<たたきつる くいなのおとも ふけにけり つきのみとずる こけのとぼそに>
ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている世界を見ることができはしないだろうか。
蔦が幾重にも閉ざした松の戸は、秋に向かっては開かれているのである。「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。「跡絶えて」の歌においても人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。「月のみ閉づる苔のとぼそに」という場合も、この苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。
式子内親王の歌の世界は、はるか彼方に幾重にも閉ざされてあるようなあり方と、その内部で、他者に対してまぎれようもなくあらわな存在をむき出してしているようなあり方と、矛盾するものが同時にみられる。この両義性、または二重性はどこから来るのだろうか。(出典引用2終わり)
☆ 閉ざされた世界、開かれている世界 赤羽淑は、歌をとおしてさらに式子内親王の心に迫り、感じとります。「ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている」。
人間は孤独な自己意識が深まれば深まるほど、自己ではない、自己を取り巻くものを、限りなく強く希求せずにいられません。その意味で、赤羽淑は、式子内親王をとおして、人間そのものを、人間である自分を、凝視していると、私は感じます。
閉ざされた世界と、むき出しにあらわな開かれた世界、歌人の心にひろがる矛盾、二重性を、歌に掬い挙げる感性に満ちた文章は、とても美しく、次のようにとらえられて歌は、その心象風景を眼前から遥かまで、さらにひろげてくれるように感じます。
「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。
人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。
苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。
拒絶と受容、相反するこころを、矛盾のまま、二重性のままに、歌い込めることができた美しい女性、式子内親王を慕う気持ちが、歌を読み返すたびに、深まってゆきます。
出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。
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