前回に続き、イタリア・ルネサンスの先駆けとして生きた
ダンテの『俗語詩論』をみつめます。
今回は
イタリアの高貴な俗詩についての鋭く詳細な論述を感じとり考えます。
第2巻での詩論でダンテは、高貴な俗語詩の望ましい姿、その形式を、一点一点こまかく確認していきます。
その項目は次のようなものです。
一行のなかの音節数。音節の強弱。行と行の関係と組み合せのスタイル。語い。歌われること。脚韻、など。
そのなかから、私が日本語の詩にも通じあうと思う事柄を選び出すと次の三点になります。
① 語いを選り分ける感性
② 音楽的旋律と言葉の韻律
③ 脚韻、技巧が勝ちすぎるのは良くないこと
① 語いを選り分ける感性
語いについての論述には、彼の言葉に対する感性の鋭敏さが浮き出ています。
「単純さゆえに子供らしい語」、「柔弱さのゆえに女女しいことば」、「粗暴さのゆえに田舎風のことば」、「すべすべした毛のもつれた都会風のことば」、彼が
言葉を選り分けるとき、感性が受けているものは、言葉の長短、母音と子音の組み合わせと並び、そして何よりその言葉の響きであることがわかります。
言葉に対するこのような感性は、時代、言語に関係なく、詩の創作の最も基本となるものだと教えられます。
マラルメが詩論「詩の危機」で語る言葉と共鳴し、
藤原俊成や藤原定家の和歌論とも響きあっていると私は感じます。
ダンテが最も好んだ言葉は何でしょうか? 私は、「あたかもみがきあげられたようにある種の柔和な音で発音されるものを櫛を入れて梳かれた語」の筆頭に彼が掲げた
語いamore,(愛)だと、彼はきっと答えてくれます。
② 音楽的旋律と言葉の韻律
ダンテが
詩を創作するとき、「音楽」、「歌うこと」を強く意識していたことが、伝わってきます。
また「伴奏のあるなしにかかわらず吟誦される場合」とあるように、
楽曲だけでなく、声を出して朗読する詩も彼は考察に含めています。
「歌」と「詩」は詩歌を愛する私自身にとっても心から離れることのないテーマです。
「歌うという行為」、管楽器、鍵盤楽器、絃楽器が奏でる「音」とか「調子」とか「メロディー」は、詩の双子のような芸術ですが、彼が詩を創作するという時、彼の詩は
メロディーを必要としない詩です。
そのことを彼は、「歌うという行為」と明確に区別して、
「ことばに調和的な配列をほどこす」、言葉の「韻律に合わせて詩作する自足した行為」と呼んでいます。
そのうえで、ダンテは高貴な俗語による崇高な詩は、メロディーを伴わずに自立して、「一つの統一的思想をあらわすために悲劇的スタイルをもって長さの等しいスタンツァをつなぎあわせたものにほかならない。」と宣言し、自らの詩句を、これがその詩だと掲げます。
Donne che avete intelletto d’amore (まことの愛を識るあなた方)
ダンテの
芸術家、詩人としての矜持と誇りに私は強く共感せずにいられません。
③ 脚韻、技巧が勝ちすぎるのは良くないこと(日本語の詩では対句や折り返し句)
楽曲に比べて大きな音、変化する音、刺激が乏しく、より繊細な言葉の響きを選び分ける詩人にとって、
脚韻は読者にわかりやすく音の響き合いは美しく共感を得やすい創作の技法です。
だからこそ、そのことに過剰に頼りすぎると、技巧があらわになり詩を損ないます。
彼は、脚韻の布置にふさわしくないことを三つ挙げます。
同一脚韻の語を過度に反復。無益な同音韻の多用。脚韻の険しさ。 どれも意識的に行わない限り、目立ちすぎ、わざとらしく、稚拙に感じてしまうと、私も考えます。
ただし彼は、詩をより美しく響かせ伝えることができる脚韻を用いることを恐れるな、とも述べます。
「柔和な脚韻と険しい脚韻の混合こそ悲劇的文体に輝きを与える」ことができる。
さらに、「技法上何か新しい、試みられたことのないことを」私も次の詩句でやったんだ、と。
Amor, tu vedi ben che questa donna (愛神よ、知ってのとおりわが君は・・・・・・)
ポオも詩論「構成の原理」で、創作の独創性にこだわり挑んだと述べました。
ダンテの次の声にポオは共鳴しるのだと思います。「
芸術家なら、詩人なら、恐れず、何か新しい技法を試みろ」と。
●以下は、出典原文(本文)の引用です。◎ 本文・第2巻―7
(略)そこで読者のみなさん、ひとつ十分心に留めていただきたい。選別に値することばを選り分けるには、どれほど篩(ふるい)をかけなければならぬかを。なぜなら
俗語の悲劇詩人―その姿を描くのが本論の目的である―が用いるべき
高貴な俗語について考察するならば、諸君の篩のなかには
もっとも高貴な語いのみを残すよう心がけるべきだからである。
Mamma, babbo, pate のごとくその単純さゆえに子供らしい語も、dolciada, placevole のごとくその柔弱さのゆえに女女しいことばも、greggia, cetra のごとくその粗暴さのゆえに田舎風のことばも、そうした語のうちには数えられない。また femina, corpo のごとくすべすべした毛のもつれた都会風のことばも論外である。
それゆえ櫛(くし)を入れて梳かれた、毛のこわい都会風のことばのみが、諸君の櫛に残されることになるであろう。それらこそもっとも高貴なものであり、高貴な俗語の構成要素なのである。そして3音節か、もしくは3音節の長さに近い語で、有気音も鋭アクセントもアクサン・シルコンフレックスも有さず、二重子音の zか xも、2個の流音の重なる双子子音も、無音の直後に来る流音も含まず、
あたかもみがきあげられたようにある種の柔和な音で発音されるものを櫛を入れて梳かれた語と呼ぶのである。次の語がそれにあたる。
amore, donna, disio, virtute, donare, letitia, salute, securtate, defesa.
毛のこわい語はどうかといえば、前述の語をのぞいた上で、高貴な俗語にとって必要なもの、装飾的なものと思われるすべての語を称していうのである。たとえば si, no, me, te, se, a, e, i, o, u’ のようにある種の単綴音や間投詞やその他多くの語と同様避けることのできない語を必要なものと称するのである。
一方櫛を入れて梳かれた語と結合することによって全体に美しい調和をみせるすべての多音節語を装飾的と定義しよう。ただしそれらは有気音やアクセントや二重子音や流音や極端な長さをもつといった耳ざわりな性質をそなえているのではあるが。
◎ 本文・第2巻―8
(略)
カンツォーネとはなんであるのか、われわれがカンツォーネについて語るときなにを意味するかをみきわめよう。
事実「カンツォーネ」とは、この語の真の意味にしたがっていえば、
歌うという行為そのもの、もしくは
歌の受動的享受である。それはちょうど「読解」が、読むという行為の受動的享受もしくは能動的行為であるのと同様である。
この点について「カンツォーネ」という用語は、二様の意味をもちうることに注意しなければならない。すなわ一方はカンツォーネが、その
作者によって創作される場合である。
ウェルギリウスが「アエネーイス」第Ⅰ巻で“Arma virumque cano “ と言っているのはまさにこの場合にあたる。他方はカンツォーネがひとたび創作されて、作者もしくは他の何者かによって
伴奏のあるなしにかかわらず吟誦される場合である。この場合には受動的享受を意味する。(略)
そしてカンツォーネは、(略)ピエトロによって歌われたからといって「それはピエトロのカンツォーネだ」といわれることはけっしてなく、ピエトロが創作したからこそそういわれるのである。
さらにカンツォーネとは
調和的な配列によることばの組み合わせをいうのか、または
音楽的旋律そのものをいうのかを問題にしなければならない。そこ応えとして主張しうることは、音楽的旋律は、けっしてカンツォーネと呼ばれることはなく、「音」とか「調子」とか「メロディー」という風にいわれる。実際管楽器、鍵盤楽器、絃楽器の奏者たちは、カンツォーネの伴奏の場合をのぞいては、だれも自分のメロディーのことをカンツォーネと称することはないのである。
一方
ことばに調和的な配列をほどこす人々はその作品をカンツォーネと呼ぶのである。したがって小紙片に記されたそうしたことばは、
たとえだれもそれを歌わないとしても、やはりカンツォーネと呼ばれるのである。
それゆえにカンツォーネは、
韻律に合わせて詩作する人の自足した行為にほかならないことは明らかである。(略)
すなわちわたしの主張したいのは、他のすべてをしのぐがゆえにかく呼ばれるカンツォーネとは、―すなわちこれこそわれわれの探求の対象なのだが―折返しの詩句もなく、
一つの統一的思想をあらわすために悲劇的スタイルをもって長さの等しいスタンツァをつなぎあわせたものにほかならない。それはわたしの次の詩作が示しているごとくである。
Donne che avete intelletto d’amore (まことの愛を識るあなた方)
◎ 本文・第2巻―13
(略)ところで
脚韻の布置について宮廷風な文体の詩人が
用いるにふさわしくないことが三つある。
すなわち
同一脚韻の語を過度に反復することである。ただしたまたま技法上何か新しい、試みられたことのないことを詩人がしたり顔でやってのける場合は別である。(略)次の詩でわたしの試みようとしたことも同じであった。
Amor, tu vedi ben che questa donna (愛神よ、知ってのとおりわが君は・・・・・・)
第2に退けるべき点は
無益な同音韻の多用である。これによって思想が何分犠牲にされる。
第3の欠点は
脚韻の険しさである。ただしそれに柔和さが混った場合は別である。なぜなら
柔和な脚韻と険しい脚韻の混合こそ悲劇的文体に輝きを与えるものであるから。
出典:
『ダンテ 俗語詩論』(ダンテ、訳註・岩倉具忠1984年、東海大学出版会)参考文献:
『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』(著者・天野恵、鈴木信吾、森田学。三修社、2010年)。イタリア詩の音楽性を教えてくれる良書です。
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