私は詩歌が好きです。詩歌という豊かなひろがりのある言葉が好きです。日本語での詩のしらべを思うとき、美しい響きの源流近くに、万葉集がささめいています。
心が疲れ干し上がって、音をききとる力が弱まり、言葉が歌を見失ってしまったとき、私は二つのことで詩歌を思い起こそうとします。ひとつは、自分自身の作品を読み返すことです。詩作の際には繰り返し読み返すことで作品全体を暗誦できるようになりますが、次第に記憶は弱まり忘れてしまいます。読み返すことで自分のこころのリズム、うたが目覚めてくる気がします。もうひとつは、好きな詩歌を読み返すことです。私にとって詩のしらべを呼び覚ましてくれるいちばんの詩集は、万葉集です。
そのなかでも、長歌の揺り返す海の波のようなリズムと響きに、日本の詩歌が生まれてきた羊水のたゆたいのような、やすらぎを感じます。
柿本人麻呂の挽歌や別れの歌、山上憶良の貧窮問答歌には読むたびに、詩歌だからこそ伝えられる思いの深さと豊かさを感じ、詩歌人として彼らに近づきたいと強い願いが揺り起こされます。
でも、彼らの徹底して創りり上げられた作品とまったく対照的な詩歌ですが、万葉集で私がとりわけ好きなのは、作者未詳の歌たち、名を残さなかった人たちの詩歌です。
巻十三の長歌は、声を出して歌われた古歌謡の名残りを留めていると言われますが、なかでも、海と娘たちの歌は、海の鮮明なイメージと娘たちのまぶしい姿と、言葉のしらべの揺り返す波に浮かんでいる思いになります。日本語の豊かに波うつ詩歌のしらべ、潮騒の響きにつつまれ、心のなかで凝固していた思いが溶かされ、歌となって揺れはじめます。
万葉集の作者未詳の歌たち、名を残さなかった人たちの、私が好きなもうひとつの詩歌、相聞歌のこと、思いを伝える言葉について次に記したいと思います。
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