草野心平の詩集
『第四の蛙』(1964年、61歳)から、前回に続き好きな詩を紹介し、私の詩想を記します。
この詩集の出版以降も彼は亡くなるまで詩集を出し続けました。蛙の世界を離れた彼の新しい詩の多くは、一人称の心平の思いを吐露したもののように感じます。直情、直述には良い面悪い面、強い面弱い面が、表裏のようにあると私は考えています。
構築した作品の世界、蛙の世界では、心を述べ伝えようとするのは語り手の蛙です。作者は隠れているので、思い入れや強い訴えを注ぎこんでも、読者は蛙の世界での蛙の訴えに真実性があるかどうかを感じとります。そしてその声を真実なものと感じる時、読者は物語世界を超えた自分自身の世界でも共鳴する真実だと感じてしまうことさえあります。
一方で、作者自身が顔を出した直情、直述は、はじめからこの世界、社会にいる一人としての声、訴えなので、発せられた言葉そのものが、この世俗社会での常識(たとえば金持ちは偉い)や日常の雑事の会話や主義主張と同じ場に置かれます。晩年の草野心平は、社会的な地位と評価を得ていたので、その草野心平の心境や考え方に近く生き方に興味をもつ人間には意味深い言葉であっても、詩としての普遍的な美しさや俗世での立場や性別、世代をも越えて訴えかけ共鳴を起こしうる詩本来の可能性は作品から薄れてしまっているように、私は感じます。
次に、引用するのは、おたまじゃくしたちの会話の平易なひらがなの詩ですが、彼らの柔らかな優しい感受性から生まれた思いには、生きるということの真実が響いていると私は感じます。おたまじゃくしの言葉を聴きとりながら私は、おたまじゃくしも私のような人間と同じなんだ、そう思い、この詩に感動してしまいます。
<草野心平の詩の引用>
おたまじゃくしたち四五匹どうしてだろう。
うれしいんだのに。
どうして。なんか。かなしいんだろ。
へんだな。
そういえばあたしもかなしい。
うれしいからなんだよ。
そうかしら。
そうだよ。きっと。
(みず。もやもやもや)
きみ。ひとりぼっち?
え?
わかんないなぼく。
ぼくはひとりらしいな。
どうかしらあたしは。
(みず。もやもやもや)
ちがうよ。
みんなぼくたち。
いっしょだもん。
ぼくたち。
まるまるそだってゆく。
まるまる。
ぼくたちそだってゆく。
(みず。もやもやもや)
きみもはなある?
あるよ。ふたつ。
ちっちゃなあな。
うふ。
からだ。ぼくたちべつべつだな。
ひとりずつね。
ひとりずつ。
ぼくたち。
まんまる。
おおきくなる。
(みず。もやもやもや)
けど。
どうして。へんだなあ。
かなしいんだろ。
あたしかなしくないわ。
ぼくもかなしいなんて。てんでない。
へんだなあ。そうかなあ。
うれしいっていうことなんだよ。かなしっていうことは。
そうかしら。
(みず。もやもやもや)
そうよ。きっと。
そうかな。
ひとりじゃないのね。
べつべつなんだけど。ひとりじゃない。
ほんとかな。
あんたいったわね。うれしいっていうことはかなしいっていうことって。
じゃ。かなしいことはうれしいこと?
(みず。もやもやもや)
<引用終わり>。
ひとりであることと、ひとりではないこと。うれしさとかなしさ。この混じり合いぐあいがとてもよく表現されていて心に揺れ響きます。
このおたまじゃくしと私も同じなんだという思いのまま、私が直情、直述に近いけれども、個人的な感慨ではなく、なんとか作品として伝えようとした詩を引用します。そのとき私には、虚構世界を構築する、創作することへの抵抗感、アフォリズムこそ真実ではないかとの疑念があり、模索していました。この作品集はその彷徨い渦中での果実です。
「
交わり ひとりであること(1)」(高畑耕治
『死と生の交わり』から。)
「
交わり」(同上)。
草野心平についての最終の次回は、私がいちばん好きな彼の詩を取りあげます。
出典:
『草野心平詩集』(2010年、角川春樹事務所、ハルキ文庫)。
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