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赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記しています。

 今回も、論文「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」に呼び覚まされた詩想を記します。
 この論文を読んで私は、赤羽淑の、和歌の創作と、創作主体の内面についての、深い共感力と洞察力を、改めて感じずにはいられませんでした。

以下、論考の中心箇所の原文をそのまま引用し、続けて創作者の一人としての私の詩想を添えてゆきます。
◎の後の文章が、出典からの引用文(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています)、◇の後の文章が共鳴した私の詩想です。

◎ 出典原文の引用1
定家の「もみもみ」に関しては正徹のことばが参考となる。
  寝覚などに定家の哥を思ひ出しぬれば、物狂ひになる心地し侍る也。もふだる体を読み侍る事、定家の哥程なる事は無き也。(正徹物語)
  定家の一条京極の家より父の許へ、

   玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風

 と読みてつかはされし、哀れさもかなしさも云ふ限りなく、もみにもうだる哥様也。・・・・・・定家は母の事なれば、哀れにもかなしうも身をもみて読めるはことわり也。(同)
「もむ」という動詞に使われ、また「身をもむ」というふうに対象が限定されている。
(原文引用1終わり)

◇正徹は、母の死に際して定家の歌を「哀れさもかなしさも云ふ限りなく」、定家が「身をもみて」詠んだに違いないと感じています。この表現に私は日本の詩心ならではの、悲しみの表現を感じます。
オウィディウス『変身物語』では、古代ギリシア人が悲しみが極まった際に我知らずする肉体的な表現、「胸をうちたたく」が頻出しました。身をもんで悲しむ日本人の肉体的な表現との、動と静、その対照的な姿を感じずにいられません。
ただ、肉体的な表現が、激しく強く主張する姿であろうが、耐え忍び打ち震える姿であろうが、心の、悲しみと痛みの強さは、変わらず、通じあい、響きあっているのだと思います。だからこそ、文学の感動は、民族性の壁を打ち破ることができます。


◎ 出典原文の引用2
俊成の歌が「すげなげ」「何となげ」に詠んでいるのに対し、定家は「哀れにもかなしうも身をもみて」詠んでいるというのである。「玉ゆらの」は、定家にしては主観的抒情のかった歌であるが、それを真直ぐ単純に詠出してはいない。心と自然形象をからみ合わせ、反復法、同行音の繰返しなどを用いながら、たたみかけるような調子で母を失った悲しみを奏でている。この技巧や推敲過程の中に主体の深い思い入れがたたみこまれ、そこから、沁みでてくる複雑微妙な効果が「もみもみ」なのであろう。
(原文引用2終わり)

◇赤羽淑の、定家の「玉ゆらの」の歌についてのこの感じとり方は、詩のかたちと詩のこころ、詩歌という芸術表現の核心を捉えていると感じます。前褐の『定家の歌一首』をとりあげた私のエッセイ「藤原定家の象徴詩」で、彼女はこの歌をより深く徹底して感受し照らし出していて素晴らしいのですが、その萌芽がここにあったのだと私は思いました。


◎ 出典原文の引用3
 定家の歌の「もみもみ」とした風姿は、俊頼よりも濃やかな「やさしさ」「艶」などの情調を有しているが、式子内親王になると、さらに深く内部生命に根ざしたものとなる。

   玉のをよ絶えなばたえねながらへば忍ぶる事のよわりもぞする(新古今・1034)

の歌などは、身をもむポーズよりも魂そのものをもみくだく悩ましげな姿態を感じさせる。しかし、よくみると押韻・畳句など手のこんだ技巧がかくされているのである。技巧がたんなる技巧に終らずに、強くとおった抒情に微妙な旋律を与えている。魂の声がそのまま歌の調べの中にひびき出たといった風に自然な技巧なのである。
抒情と技巧が相即不離になっていて、これこそ内在律と呼ぶにふさわしい。
(原文引用3終わり)

◇「内部生命」いう言葉に私は赤羽淑の、北村透谷の情熱的な文学論に近しい熱情を感じます。文学を愛する者の熱い者が抱く熱い思いです。
 「内在律」という言葉にも、萩原朔太郎の詩論に近しい詩歌についての根本的な感受性を感じます。
 式子内親王のこの歌を、朔太郎は熱愛し、私もまた熱愛しています。
ここで言われている「抒情と技巧が相即不離」となり、「魂の声がそのまま歌の調べの中にひびき出たといった自然な技巧」は、詩人である私が創作の時間にいつも心に想い願い目指している、詩歌の理想の姿です。


◎ 出典原文の引用4
「もみもみ」の式子内親王におけるあり様は、着想の面白さや外からの構想力によるのではなく、内からおのれを責めてゆく過程を通してあらわれる風姿なのである。内親王はおのれの感情に耽溺しない。また自然のむーどの中に融和しようともしない。つねに対象をつきつめ、おのれを責め、それを徹底させてゆく。その透徹の過程には緊張と葛藤が生じ、そこから創造される歌の姿が「もみもみ」としたものなのである。
(原文引用4終わり)

◇式子内親王に対して、彼女の風姿、歌風、創作主体としての生きざまを、深く感受する、心うたれる、美しい言葉です。「その透徹の過程には緊張と葛藤が生じ」、「そこから創造される」、そこからしか創造できないのが、歌、詩歌、文学だと、私も体感してきました。体感し生きていこうと願う、いつの時代にもかわらない、創作主体にとっての真実が、この言葉に照らし出されていると、私は深い共感をおぼえ、式子内親王に憧れ、彼女の歌を愛し、魂をゆさぶられ、私のうちからの創作へと駆られてゆきます。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」『古典研究』第3号、1968年。


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    こだまのこだま 動画  

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プロフィール

高畑耕治

Author:高畑耕治
Profile:たかばたけ こうじ
1963年生まれ大阪・四條畷出身 早大中退 東京・多摩在住

詩集
「純心花」
2022年イーフェニックス
「銀河、ふりしきる」
2016年イーフェニックス
「こころうた こころ絵ほん」2012年イーフェニックス
「さようなら」1995年土曜美術社出版販売・21世紀詩人叢書25
「愛のうたの絵ほん」1994年土曜美術社出版販売
「愛(かな)」1993年土曜美術社出版販売
「海にゆれる」1991年土曜美術社
「死と生の交わり」1988年批評社

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